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「手放す」と「入る」とよく言われます。
執着を「手放した」途端に、思いもよらぬ方向から「入る」というのは、よく聞く話です。
さりとて、意図してすることが難しいのがこの「手放し」。
どうしたら「手放せる」のか、ということについて綴ってみます。
いろんな豊かな人にお話を伺っていると、イヤだと思っている、避けたいと思っていることが起こることに「許可を出す」ことが鍵のような気がします。
「手放す」と「入る」。
「放てば満てり」と同じように、この世界の一つの真実のように思えます。
分かりやすいのが、恋愛関係。
「この人しかダメ!」、「OK以外の返事は認めない!」という告白は、だいぶ高確率でフラれます。
また「この人しかいない」、「あの人以外とは考えられない」という状態の恋愛は、こちらもかなりの確率でこじれます。
そういうネバネバと執着した状態ではなくて、もっと自然でフラットな状態のときの方が、上手くいくように思います。
ええ、なかなか分かっていてもできないんですけどね(遠い目)
恋愛に限らず、私から見て「あー、この方はすごく豊かに生きてるなー」と感じる方は、お金にしても人の縁にしても自分の夢や目標にしても、いい具合に緩んでいます。
手放せているというか、それに執着していないんですね。
どうしたらそんな風に手放せるのか?
自分もそうなりたいな。
と考えるようになってからは、どうしたらそうなれますか?とお伺いするようになりました。
まあお答えいただけることもあれば、そうでないこともありますが、一つ共通しているのは、
普通に考えるとイヤだと思うことに、あまり怖れていない、ということが言えるかもしれません。
お金がなくなったりすることを、怖れていない。
何かやってみて、失敗することを怖れていない。
一人でいることを、怖れていない。
それは言い換えると、自分の望みの反対のことが起こることに「許可を出している」と言えるような気がします。
そしてそれは、望まないことが起こっても「大丈夫だから」と信じていることが大きいと思うのです。
何が起こっても大丈夫。
そう信じることは、「何かができるから大丈夫」という思考回路では、なかなか心の底からそうは思えません。
昨日の「自立」はどこかでふん詰まる、というお話とも似ているのですが、「自分が何かできるから、大丈夫」という信念は、「何かできないこと」が出てきたときに一瞬にして崩れ去ります。
つまり、「できることを増やさないといけない」という頑張りは、どこかで折れるのです。
それよりも、
「何が起こっても大丈夫、なぜなら私だから。」
という前提に基づく信念は、何が起こっても崩れません。
人によっては、神さまなのか仏さまなのかに見守られているから大丈夫、という信念なのかもしれません。
そんな非論理的な信念だからこそ、「許可が出せる」。
世の中の全ては陰陽でできており、片方だけを取り出すということはできません。
逆に言えば、負の側面の許可を出せるということは、光の側面を受け取れる、ということなのです。
人の感情を見てみると分かりやすいかもしれません。
「怒り」を感じることに許可を出すと、「情熱」という恩恵を受け取れたり、
「悲しみ」を感じることに許可を出すと、「喜び」を大きく受け取れたり、
「寂しさ」を感じることに許可を出すと、「親密感」をより深く感じられたりするように。
少し話が広がり過ぎましたが、つまりは「手放し」とは「負の面が起こることを許可する」ということのように思うのです。
そして、その負の面が起こることに許可を出すためには、「頑張らないこと」、「自立し過ぎないこと」。
何かが「できる」から負の側面が起こっても対処できるのではなく、何も「できなく」てそれが起こっても大丈夫だ、ということ。
それに気づくことが、「手放し」と呼ばれるのでしょう。
心配していることが起こっても、きっと大丈夫。
だって誰でもない、あなたはあなたなのですから。
「手放し」について綴ってみましたが、いかがでしたでしょうか。
今日は二十四節気の「芒種」(ぼうしゅ)。
「芒(のぎ)」とは、イネなどの植物の帆の先を指し、穀物の種まきや麦の刈り入れ、田植えに適した時期だそうです、
月日は気づけばめぐっていきますね。
それを注意深く見ていることが、実は最も効果的な「手放し」の勉強になるのかもしれません。
今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。