書けないだ、書くこと意味だ何だと言っても、時間は過ぎていくわけで。
日々の締め切りは待ってくれない。
このブログもそうだし、ウマフリさんへの寄稿も。
気持ちがいい秋のハイシーズンが近づくと、G1シリーズの足音が聞こえてくる。
早いもので、今週末から中山のスプリンターズステークスを皮切りにスタートする。
別に誰かに設定された締め切りではないのだけれど、「とりあえず有馬記念まで毎回書く」と決めた手前、書かないと気持ちが悪い。
ということで、昨日は一日ウンウン唸っていた。
せっかくなので、唸って書いた序文を公開してみようと思う。
タイトル : 「晩秋の青空の下の逃げ切りに亡き父を想うこと ~1998年 菊花賞に寄せて」
師走のある日の朝、突然の父の訃報の電話を受けたとき、私は学生で下宿先でまだ寝ていた。
「落ち着いて聞きなさい」と切り出す祖母の方こそ、全く落ち着いていないだろうと妙に冷静だった。
不思議と、悲しいといった感情は湧かなかった。
急ぎ帰省しないといけなかったのだが、なぜか吉野家で朝昼兼用の牛丼の大盛りを殊更ゆっくり食べてから駅に向かったのを覚えている。
隣に乗客がいると落ち着かない私は、いつも新幹線に乗るときはデッキで過ごす。
そのときも窓の外を流れる風景を、何となく眺めていたように覚えている。
窓の外を流れるのは、いつも帰省するときと変わらない風景に見えた。
父は、私が中学生のときに北陸に単身赴任になった。
私は高校卒業のあと実家を出たから、思春期以降、父と会話をすることが圧倒的に少なかった。
たまに父が実家に帰ってきても気恥ずかしく、私が実家を出てからは盆と正月の帰省のわずかな時間くらいだったように思う。
若いうちに突然に親を亡くすと、自分の寄って立つ土台となるアイデンティティを喪失して見失うことがある。
その翌年、母をも突然亡くした私は、まるで糸の切れた凧のように寄る辺なく漂っていた。
男性にとって「親父越え」というものは人生の一つの大きなミッションであり、それをこじらせると上司やリーダーシップに葛藤を抱えることになるが、父親を失った私は「越えるべきもの」を同時に失ってしまった。
それでも、幸運にも就職した会社でワーカホリックになりながらも働き続けることができたのは、仕事に文句一つ言わなかった父親のおかげなのかもしれない。
そういえば私が下宿して家を出ることを決めたその年に、菊花賞を勝ったセイウンスカイも「越えるべき父親」を喪失していた。
人間の都合で生まれてから父馬と会うこともないサラブレッドにそれを投影するのは、もちろん馬鹿げているとは思う。
それでもあの師走の朝の別れの電話から、早や17年が経ったいま、私はあの秋の京都の青空の下の美しき逃走劇に想いを馳せる。
もしウマフリさんにご許可頂けるようなら、10月21日の菊花賞の週のどこかで掲載されると思うので、楽しみにして頂けると嬉しい。
ということで、書くことの悩みは書くことでしか解消できないのかもしれない。
人との関係で傷ついたら、人との関係でこそ癒されるように。
愛ゆえに傷ついた心は、愛でしか癒せないように。