今日も2本目の更新にありつくことができた。
書けるかどうか分からないけれど、とりあえず「書き始める」。
文章の構成もオチも考えていないけれど、とりあえず「書く」。
トートロジーだが、「書く」ことの秘訣は「書く」ことなのだろうと思う。
内容と構成を書き始める前にしっかりと考えた方がいいという文章論もある。
それも正しいのだろう。
そして、私にそういう書き方が必要になれば、また学びの機会がやってくる。
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思えば、1日1エントリーは続けたいという希望が強すぎて、逆に私自身を縛っていたような気もする。
もっと自由でよかった。
筆が乗れば二つでも三つでも書けばいいし、気が乗らなければ書かなくてもいい。
今日ここに訪れて頂ける方を大切にするために書くことと、自分の気持ちを大切にすること。
自分にとって、その両極の中庸を見つけることが、書くことを続ける秘訣のような気もする。
今は、書きたいと思うので、日々こうして書いている。
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そうしたときに、ふと染みついた自己否定の癖が出てくる。
「もっと早くにそうしておけばよかった」
「いままでムダにしてしまった」
「なんでもっと早く気づかなかったんだろう」
「一歩踏み出す勇気が、自分にはなかった」
そうした自分を否定するささやきは、ふとした心の隙間に巧みに潜り込んでくる。
それは、「モーニング・ページ」を書いている、なおさら顕著なのかもしれない。
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誰しもが、未来のことなど分からない。
蓮如上人が「御文」で述べられたように、「朝(あした)には紅顔ありて夕べには白骨となれる身」のわが身、1年先よりも明日のことなど、分かりはしない。
過去の自分からすると、いま自分が立っているのが「予測できない未来」の地点なのだ。
秒速30キロで太陽の周りを公転し、
秒速400メートルの速度で自転するこの星の上で、
70億を超える人がそれぞれの想いをもって、
それぞれの縁ある人と繋がって、
いまこの瞬間を生きている。
その結果の未来など、誰も予想できない。
そんな未来である自分が立っている地点から、過去の自分やその選択を責めるのは、犯人が分かっているサスペンスドラマを最初から見て、登場人物の行動の愚かさを責め立てるようなものだろう。
なにやってんだ、
あいつが犯人だ、見てれば分かるだろう、と。
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それがベストだったんだ。
勇気がなかったんじゃない。
それを選択しなかったことが、最善だったんだ。
間違った選択をしたわけじゃない。
動けなかったとしても、
何もできなかったとしても、
力が足りなかったと感じたとしても、
助けられなかったしても、
孝行の一つもできなかったとしても、
挑戦できなかったとしても、
逃げたとしても、
その手が汚れてしまったとしても、
自分を責め抜いたとしても、
それがベストだったんだ。
最善を尽くしてきたんだ。
そのおかげで、いまここにいる。
スマホの画面か、パソコンのモニター越しで、いまこの文章を読んでいる「いま」がある。
そのおかげで、こうしてつながれている。
勇気がないんじゃない。
それが、ベストだったんだ。
いままで、ずっと最善を尽くしてきたんだ。
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陰陽なればこそ、
人が大変な時期に出会ったものは、どれもこれもが、すべて本物であり恩恵である。
晴れた空が続けば日照りとなり乾季となる。
土砂降りの雨を心待ちにする。
問題があればこそ、そこに必ず恩恵がある。
そして、その恩恵とは、分かりやすい形のものではない。
それは、陰陽を統合して、自分自身に還ること。
さまざまな痛みや悲しみの海に沈めた、自分自身をサルベージすること。
自分自身の持つまばゆい光と底知れぬ闇を、全て認めて全面降伏すること。
これが私です、と世界に語りかけること。
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いま、ここで文字を書いていること。
いま、何かの縁でここで文字を読んでいること。
いまは、それ以上のことも、それ以下のこともない。
せっかくだから、いまはそれを祝福しよう。
それが、ベストだったんだ。
すべてが、ベストだったんだ。