自分の中で思い出したくもない宿痾のような光景を、
10月のおわりに衝動に駆られて書き殴った。
周りの善き人の好意を、ずっと受け取れなかった話だ。
多かれ少なかれ、ずっと私は周りから受け取ることを拒否してきた。
いまキーボードを叩く指が震えるのが、その受け取ることへの抵抗の、確たる証拠のように思う。
差し出される愛を受け取るには、
ただニッコリ笑って「ありがとう」と受け取ること。
そんな単純なことが、ずっとできなかった。
だから犠牲にして、卑下して、癒着して、自分の価値を受け取ってこなかった。
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「痛み」を冷凍保存していると、受け取るスペースがなくなる。
消化しきれない「痛み」がべっとりと臓腑にへばりついた状態で、
差し出されるものを受け取ることは難しい。
それが「痛み」か「薬」か「毒」か分からないからだ。
そのとき、経験則にしたがって「それは『痛み』なんだ」と、
受け取らずに空腹でいることを、人は選ぶ。
再びこの身体を蝕む「痛み」を食らうくらいなら、
空腹に身を任せた方がいい。
ひらたく言えば、
人間の悪意にひどいことをされ、こっぴどく痛い目を見た野良犬が、
それを知らぬ人間が善意で差しのべた手に噛み付くようなものだ。
それは、防衛本能だ。
私の中にも、まだたんまりとそれがあるようだ。
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だからどうしよう、ということもない。
問題は解決しようとするほどに錯綜する。
もう、それが、私なのだ、と笑おう。
それでも、いままで出会った善なる人たちの無償の愛を想うと、
受け取れなかったものの大きさに愕然とするし、
またその罪悪感で自分を罰したくなる。
それでも、
それはそれとして、
もう、それが、私なのだ、と笑おう。
それが、私なのだ。
無条件に自分を肯定する、とはきっとそういうことなのだろう。
=
玉置浩二さんの「田園」が好きだ。
長すぎる静かな夜に、よく聴いていた。
サビの部分の最後、一番では
僕がいるんだ みんないるんだ
愛はここにある 君はどこへもいけない
なんだけど、二番になると
僕がいるんだ みんないるんだ
そして君がいる 他に何ができる
になって、ラストのコーラスでは
僕がいるんだ 君もいるんだ
みんなここにいる 愛はどこへもいかない
に移り変わる歌詞が、本当に好きだ。
同じメロディなのに、違う調に聴こえる。
そうなんだ、
そうだったんだ。
みんなここにいる。
愛はどこへもいかない。
そして、
愛はここにある。
僕はどこへでもいける。