先日、作陶体験をした愛知県陶磁美術館を再訪した。
その際のエントリーはこちら。
アーティスト・デート ~愛知県瀬戸市・愛知県陶磁美術館 訪問記 - 大嵜 直人のブログ
あれから1ヶ月、焼きあがった陶器を引き取りに訪れたのだ。
その際につくった作品がこちら。
お茶碗と小鉢を作ったつもりだったのだが、はたして焼き上がりはどうだろうか。
焼き上げの工程で、割れたりしていないだろうか。
何か学生のときの試験の結果の発表のような心持ちで、瀬戸市へと向かった。
訪れた日は師走らしい寒さの日だった。
空を厚い雲が覆っていた。
雲のかたちは、いつ眺めても飽きない。
ただ一瞬として同じかたちの瞬間はなく、いつ眺めても私の心をいまこの瞬間に引き戻してくれる。
少し肌寒いくらいだったが、作陶館へ向かっている途中で陽が差してきた。
逆光で眺める雲もまた、趣深い。
先月訪れたときは紅葉真っ只中で、足元には落ち葉がびっしりと積もっていたように記憶していたが、この日はすでに綺麗になくなっていた。
遠くに見る山も、枯野の装いに変わっていた。
ほんとうに、季節が移ろうのはあっという間だ。
道すがらには、南天の実がなっていた。
小さな赤が、色彩が乏しくなった冬の景色に映える。
冬を感じながら、作陶館に着いた。
受付に引換証を出して、番号を確認してもらう。
ドキドキする中、見つけた私の作品がこちらだった。
焼きあがった二つの器。
こうして実物を前にすると、何だかこそばゆいような感じがするのは、なぜだろう。
織部の方は、お茶碗にするつもりだったのだが、縮んでしまったと思うくらいに高さが足りず、小鉢の方が使えそうだ。
いびつな外形も、織部の釉薬を塗って頂いて焼きあがると、それなりに見えるものだ。
もう一つの方は小鉢のつもりだったのだが、こちらは逆に高さが高くなり過ぎた感がある。
湯呑み茶わんにするのが、ちょうどいいくらいのような気がする。
縁の厚さが不均一なのが「はじめての陶芸」の感があるが、それもまた味になるのだろう。
いずれにしても、自分で捏ねた土がこんな風に形になると、ずっと愛でていたくなる。
普段使いでどんどん使っていきたいな、と思った。
せっかくなので、先月も訪れた茶室でお茶をいただくことにした。
窓から見える冬の風景が、侘しさを感じさせる。
「和」の風景というと、なぜか「冬」との相性がいいような気がするのだが、なぜなのだろうか。
茶室までの道で咲いていた山茶花・・・だと思うが、いつも椿と間違えるので自信がない。
あえて冬のモノトーンの時期に赤い花を咲かせるのは、なぜなのだろう。
色とりどりの春に咲くよりも、その赤色は鮮やかで美しいように思う。
茶室で供されたお菓子は、椿をモチーフにした上生だった。
花鳥風月を種とする和菓子は、ほんとうに美しい。
断酒をしてから、甘いものがほんとうに美味しく感じる。
こしあん、最高。
お薄をいただく。
器はこの近辺出身の作陶家の作品だそうだ。
上生で口に広がった甘みが、「きゅっ」と凝縮する。
思わずため息が出る瞬間。
美味しい。
焼きあがった陶器を引き取りながら、
ゆったりとした時間を過ごすことができた。
それにしても下手もいいところなのだが、
自分の作った器というのはいいものだと思った。
どれだけ形がいびつだろうと、そのいびつさをまた愛でたくなるのだ。
一緒にお薄を飲んでいた子どもたちもそうだ。
完全な形になどならなくていい。
ただそのままで、どこまでも愛しいのだ。
翻って考えるに、私自身もそうだったのだろうか。
どれだけ不出来で癇癪を起こして悪態をついて中指を立てたり、
その逆でどれだけ落ち込んだり傷ついたり病んでいようと、
絶え間なく、
いつも愛されていたのだろうか。
いや、きっとそうだったのだろう。
そしていまも、そうなのだろう。
いまこの瞬間に、お薄を飲んでいることが、
ほっと息を吐いて、そして吸っていることが、
その心臓が絶え間なくビートを刻んでいることが、
その証拠なのかもしれない。
それは私のみならず、この目に映る山茶花もお薄も茶器も雲も虫たちも、
何もかもが、そうなのではないだろうか。
それらはすべて、作陶家なのか神さまなのか分からないが、
愛をもってつくったのだろうから。
息子が余った土で作った招き猫。
何と味のある表情だろうか。
この目に映るものは完璧で、何も加えることも引くことも必要ないのかもしれない。
1ヶ月にわたるアーティスト・デートは、いろんな気づきを与えてくれた。
日々いびつな器を愛でるとともに、私を愛でようと思う。
いびつで傷だらけで、不完全で未完成な、この私を。