自分を愛するということの中で、最もたいせつな第一歩は「自分を否定している自分」を愛する、ということだ。
そのために必要なのは、自分を見つめる自分を認識する、ということ。
これがなかなかに難しい。
けれど、どんなに自己否定の嵐が吹き荒れ、その荒波に翻弄されようとも、その自分をじっと静かに見つめている自分が、確かにいる。
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私が自分自身を扱っているように、周りの社会や他人から扱われる、とはよく言われる。
自分が自分をどう扱っているか。
セルフイメージとも呼ばれる、その扱い、考え方が、世界を見る色眼鏡になる。
赤い色眼鏡をかければ、世界は真っ赤で落ち着かない苛立つものになるだろうし、
灰色の色眼鏡ならば、暗く夜明けのない世界にいつまでも居続けるのだろうし、
青い色眼鏡にすれば、水底に沈む陰鬱な世界から抜け出すことは難しい。
その眼鏡から見た世界の見え方で、行動が決まる。
そして、その行動によって周りからの扱いが変わってくる。
すべては、私が自分自身をどう扱っているか。
その一点に尽きる。
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誰しもが厄介な色の色眼鏡はイヤだと思い、その色眼鏡を外したいと思う。
世界には愛が満ちていて、優しさにあふれていて、それでいて懐は限りなく深くて…そんな世界で生きたいと願う。
そうして、自分自身に対するイメージを変えようと試みるかもしれない。
いままでの自分のイメージ、
誰にも愛されない。
普通のことができない。
何の価値もない。
どうしようもない。
何をやってもダメなやつ。
…そんなイメージを持っていたと気づくところから、旅は始まる。
誰もがそんなネガティブなイメージを嫌い、
世界中から愛される。
何でもできる。
ものすごく価値がある。
素晴らしい。
何をやらせてもデキるやつ。
…そんなポジティブに書き換えようとする。
それはまるで、不安や怖れ、怒りや無価値観、嫉妬、悲しみや寂しさといったネガティブな荒波を運んでくるホースの先を塞ぐように。
けれど、それは簡単には塞がらない。
ホースの先っぽを摘まんでも、流れてくる水が、まるで大きな卵を飲み込んだ蛇のようにホースをふくらませ…
そしていつの日にか、ふくらんだホースは大きく破裂してしまう。
そのときのセルフイメージの下がり様といったら…
履かせていた下駄が外れた分、激しい自己否定に陥ることもあるかもしれない。
やっぱり、変わらないのだ、と。
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その暗闇の底で、人はあるときにふと気づく。
どんなに激しく自分を否定しても、
どんなに自分を傷つけようとしても、
どんなに罵詈雑言を自分に投げつけても、
どんなに絶望の海に沈もうとも、
それをじっと静かに見ている視線がある。
注意深くその視線を投げかけている者を見ると、それは私自身の視線なのだ。
笑うでもなく嘆くでもなく、私をじっと静かに見つめている私。
上映されるフィルムに一喜一憂している私ではなく、映写室にいる私。
どこまで絶望していても、どこかであっけらかんと笑う私。
相手と向かい合って将棋を指す私を、解説する私。
ふとしたときに感じるそれは、いつしか確信となっていく。
確実に、そうした私が、「いる」。
そのじっと見つめる私は、苦しむ私を見て、何も言わない。
ただ、そこに「いる」。
その私は、どんな私も否定しない。
ただ、そこに「いる」。
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結局のところ、自分を愛するとは、自分を傷つけ否定する自分すらも愛する、という事に他ならない。
否定しようとしたイメージ、
誰にも愛されない。
普通のことができない。
何の価値もない。
どうしようもない。
何をやってもダメなやつ…
それでも、 大丈夫なのだ、是である、と肯定することに他ならない。
なぜなら、そのイメージはあなたの本質とは何の関係もないからだ。
どんなに厚い雲が空を覆っても、
青空というものの存在が失われることのないように。
たとえ表面が汚れくすんだとしても、
ダイヤモンドの輝きの本質とは何の関係もないように。
汚泥の中だろうと誰も知らない山の中だろうと、
咲いた花の美しさは変わらないように、
あなたの本質の素晴らしさは失われない。
どこへも、いかない。
ただ、ここにいる。
じっと静かに、あなたを見つめている。
どんなあなたでも、見守っている。