大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

再出発と巡礼の熊野路1 ~和歌山県田辺市「熊野本宮大社・大斎原」

熊野は、私にとって定期的に訪れたくなる地の一つだ。

2018年に、熊野を訪れた。

「熊野」の名を何度も耳にしたり、どこか呼ばれるようにして、長い距離を運転したことを覚えている。

それから、人生の季節がめぐるたびに、熊野の地を訪れた。

大らかなその空気に、癒されてきた。

2022年5月。風薫る、新緑の季節。

また、その熊野を訪れることができた。

 

熊野へ参るには
紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し
広大慈悲の道なれば
紀路も伊勢路も遠からず

「梁塵秘抄」にそう詠われた通り、熊野路はいくつものルートがある。

大阪から南下する紀伊道、伊勢神宮からの伊勢路、あるいは高野山からの小辺路、修験道の行者が通ったとされる大峰奥駈道…いずれの路も、興味深い。

中世より、あらゆる人を受け入れる聖地だった、熊野。

「蟻の熊野詣」とたとえられるほどに、多くの人が列をなして、この熊野路を歩いて参詣したと聞く。

やんごとなき方々から、武士や庶民、病を抱えた人、あるいは不浄とされ虐げられた人まで、熊野の地は分け隔てなく受け入れてきた。

さまざまな想いを抱いて、祈りとともに歩いた熊野路。

だからこそ、なのだろうか。

熊野の空気はどこまでも大らかで、どこまでも懐が深く、包まれるような清々しさがある。

「広大慈悲の道なれば紀路も伊勢路も遠からず」。

私はいつも、伊勢路から熊野を目指す。

東名高速から伊勢道に分岐し、そして尾鷲道へ。

清和多気インターを超えると、木々の緑の色が変わる。

どこか、見る人のこころを映し出すような、濃くて澄んだ、深い緑になる。

尾鷲北インターと、尾鷲南インターがつながったことで、また少し熊野が近くなった。

いくつものトンネルをくぐる。

一つのトンネルをくぐるたび、生から死へ、そして再生を繰り返すようだ。

人の生もまた、死と再生をめぐる。

それは肉体的なものでもあり、人生の季節でもあり、魂の遍歴でもある。

折しも、私自身の2022年は、天中殺が明けた年。

新しい再出発の旅路だったのかもしれない。

和歌山県に入り、山の中を走る。

ようやく、熊野本宮大社のあたりにたどり着く。

数年前に、この時期に訪れた際は、この河川敷がいっぱいになるくらい、参拝客の車が停まっていたのだが、この日はそれほど混雑もしていなかった。

感染症禍がようやく落ち着きを見せ始めたとはいえ、まだまだ遠出をしようというマインドにはならないのかもしれない。

この日は、初夏を通り越して、夏日のような日差しだった。

車を降りて、深呼吸を。

熊野川の青、新緑、そして空に白雲。

原初風景のような、彩り。

熊野本宮大社の鳥居から。

掲げられていた歌は、白河上皇のもの。

咲き匂ふ 花のけしきを 見るからに

神の心ぞ そらに知らるる

境内の、八咫烏のポスト。

初めて訪れた際は、黒だった。

その翌年は、熊野の深い森をあらわす、緑色に。

その翌年は、感染症禍で医療関係者に感謝を表する、青色だった。

そして、2022年の今年は、また黒色に戻ったようだ。

はやく、このマスクも外せる日がくることを願う。

今年の文字は、「咲」。

鳥居のところの白河上皇の和歌にも、「咲く」があった。

花が咲く。

そして種子となり、地に落ち、そしていつしかまた芽が出る。

とぎれることのない、生命の循環。

そんなことを、想う。

本殿に、参拝を。

青空の下、手をあわせ、祈りを捧げる。

何を祈るということもなく、ただ今日ここに来られたことの報告と、感謝を。

新緑の季節。

境内の緑が、目に鮮やかに。

この季節に訪れることができた僥倖を想う。

熊野の木々は、どこまでもまっすぐで。

同じようにまっすぐに伸びる陽光を浴びながら、階段を下る。

多くの参拝客が、祈りとともに歩いた参道。

 

 

本宮を後にして、伊邪那美命の荒御魂がお祀りされている産田社にもお参りしてから、大斎原へ。

ちょうど、田植えの季節。

カエルが、気持ちよさそうに鳴いていた。

もともとは、この大鳥居のところに本宮はあったのだが、明治期に大水害により、現在の本宮大社の場所に移転したと聞く。

かつての熊野本宮大社があった場所には、二基の石祠が建てられ、静謐な空気が満ちていた。

頭上から聞こえる鳥の声。

遠くからカエルの声。

木々のざわめき、薫る風。

しばらく、大斎原で、呼吸をする喜びとともにいた。

熊野川を眺めながら。

かつて、ここに本宮大社があった時代。

参拝者は、この熊野川を素足で渡り、禊を済ませたと聞く。

数多の参拝者の汚れを濯いできた、その流れ。

その水の流れを聞いていると、私の心の澱もまた、流れていくようにも思えた。