人生における「問題」とは、車のわき見運転の警告のようなものだ。
ただ自分の人生を生きることに集中できていないと、「問題」は起こる。
自分の生命の輝きを忘れ、他人の人生を生きようとすると、「問題」はドアをノックする。
人が生きるということの熱量、エネルギー、パワー、情熱…
それを忘れたり、あるいは薄まったりしたときに、ありがたいことに「そっちじゃないよ」と、世界は「問題」を通して教えてくれる。
傷心する、
孤立する、
挫折する、
離別する、
喪失する、
失職する、
病臥する…
ありとあらゆる「問題」は、「そっちじゃないよ」のサインだ。
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ただ、生きるとき、そこには目的地はない。
ただ、そこには人が生きるという熱量があるだけだ。
ただ、当たり前の変化のない一日が、奇跡のように思えること。
それこそが、生命がほんとうに求めていることなんだと思う。
大きな目標や輝かしい成功を目指すな、というわけではない。
その結果に思い煩い、足を止めてしまうこと。
それこそが、自らの生命の輝きを停滞させ、薄め、やがて忘れ、自分ではない誰かの人生を気にして、わき見運転を始める契機になる。
そして、「問題」は警告する。
「ハロー!何わき見してんのよ?ちゃんと前向きなさいよ!」と。
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どれだけ、いまを生きているか?
どれだけ、自分の生に集中できているか?
どれだけ、自分の生命の輝きに魅了されているか?
どれだけ、内なる純粋な声に耳を澄ませられているか?
「問題」は、しつこくそれを問うてくる。
そして、わき見運転をしている頬をピシャリと叩く。
「早く、自分の生を生きなさいよ!」、と。
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自分だけの情熱。
どれだけやっても飽きない、自分だけの喜び。
ただ、それを追求すること。
誰かの青い庭にわき見している暇があるなら、
やれ。
書け。
いいじゃないか、不出来で。不完全で。三流で。弱小で。無名で。
そのままでいいから、
やれ。
書け。
書くことが見つからないなら、書き続けろ。
いつかきっと見つかるから。
何にもない、
へたくそで、
ものにならなくて、
箸にも棒にも掛からなくて、
不器用で、
ひねくれていて、
稼げなくて、
不細工で、
センスも無くて、
嫉妬深くて、
泣き虫な、
いまそのままの自分の熱量を、世界に与えるんだ。
どんなに雨に濡れようが、風に吹かれようが、花は咲く。
どんな「問題」が起ころうとも、そこから人は立ち上がる。
人の生命は、そんなに弱くない。
その輝きは、そんなに鈍くない。