大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

自分を忘れるとき、「問題」が起こる。

人生における「問題」とは、車のわき見運転の警告のようなものだ。

ただ自分の人生を生きることに集中できていないと、「問題」は起こる。

自分の生命の輝きを忘れ、他人の人生を生きようとすると、「問題」はドアをノックする。

人が生きるということの熱量、エネルギー、パワー、情熱…

それを忘れたり、あるいは薄まったりしたときに、ありがたいことに「そっちじゃないよ」と、世界は「問題」を通して教えてくれる。

傷心する、

孤立する、

挫折する、

離別する、

喪失する、

失職する、

病臥する…

ありとあらゆる「問題」は、「そっちじゃないよ」のサインだ。

ただ、生きるとき、そこには目的地はない。

ただ、そこには人が生きるという熱量があるだけだ。

ただ、当たり前の変化のない一日が、奇跡のように思えること。

それこそが、生命がほんとうに求めていることなんだと思う。

大きな目標や輝かしい成功を目指すな、というわけではない。

その結果に思い煩い、足を止めてしまうこと。

それこそが、自らの生命の輝きを停滞させ、薄め、やがて忘れ、自分ではない誰かの人生を気にして、わき見運転を始める契機になる。

そして、「問題」は警告する。

「ハロー!何わき見してんのよ?ちゃんと前向きなさいよ!」と。

どれだけ、いまを生きているか?

どれだけ、自分の生に集中できているか?

どれだけ、自分の生命の輝きに魅了されているか?

どれだけ、内なる純粋な声に耳を澄ませられているか?

「問題」は、しつこくそれを問うてくる。

そして、わき見運転をしている頬をピシャリと叩く。

「早く、自分の生を生きなさいよ!」、と。

自分だけの情熱。

どれだけやっても飽きない、自分だけの喜び。

ただ、それを追求すること。

誰かの青い庭にわき見している暇があるなら、

やれ。

書け。

いいじゃないか、不出来で。不完全で。三流で。弱小で。無名で。

そのままでいいから、

やれ。

書け。

書くことが見つからないなら、書き続けろ。

いつかきっと見つかるから。

何にもない、

へたくそで、

ものにならなくて、

箸にも棒にも掛からなくて、

不器用で、

ひねくれていて、

稼げなくて、

不細工で、

センスも無くて、

嫉妬深くて、

泣き虫な、

いまそのままの自分の熱量を、世界に与えるんだ。

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どんなに雨に濡れようが、風に吹かれようが、花は咲く。

どんな「問題」が起ころうとも、そこから人は立ち上がる。

人の生命は、そんなに弱くない。

その輝きは、そんなに鈍くない。