新しい何かを始めたい、何かに挑戦したいと思っても、なかなか踏み出せないとき。
それは、あなたに勇気がないわけでもないし、ダメなわけでもない。
それは、単にいまのあなたにとって「必要がないから」。
そんなときは、無理しようとするよりは、いまの生活だったり仕事だったりを、丁寧に取り組む方がいい。
=
このままじゃダメだ、現状から脱却したい、いままでの自分から変わりたい、と思うとき、人は何か行動を起こそうとする。
それは、何らかの学びであったり体験であったりする。
私も、いままでの自分を変えたくて心理学を学んだり、ランニングをしたり、いろいろ始めたりした。
ここで書くことのように、いまでも続けているものもあれば、全然続かなかったり、始めることすらできなかったこともたくさんある。
そんなとき、挑戦できない自分を否定したり、一歩踏み出せない自分を勇気がないと責めたりしがちになる。
周りの目に映る人は、 その小石を軽々と飛び越えているのに、なぜ私はできないのだろう。
あんなことくらいできないのは、やっぱり私はダメな人間なんだ。
よく陥りがちな自己否定の罠である。
けれど、ほんとうに、あなたという存在は、そんなにも愚かで、嘆かわしい、ダメな存在なのだろうか。
あなた自身が薄々感づいている通り、真実はそうではない。
=
起こっていることが、いつも完璧だとするなら。
一歩踏み出せないこと、チャレンジできないことは、何も悪いことではない。
それは一つの真理を教えてくれているのかもしれない。
すなわち、いまの自分にとって必要ではないことなのだ。
その一歩踏み出す勇気を、新しいことに始める必要がない、というだけのことなのだ。
それは、いま目に映る現状と、丁寧に向き合う必要がある、というだけのことなのだ。
大切なことは、いま目の前に、ある。
大切なひとは、いま目の前に、いる。
それらに丁寧に向き合い、集中して取り組むべき何がしかがある、というだけのことだ。
=
新しい学びや、
あなたの知らない真理や、
未だ見ぬ使命や、
何かに向いているという適性や、
あなたの外側にいる人たちや…
それらは、あなたを薔薇色のステージに導いてはくれない。
今とは違う別の世界に行けば、幸せになれるという罠は、誰でも嵌る。
それは、罠であり、幻想だ。
もしも、一歩が踏み出せなかったり、新しい何かにチャレンジできなかったとしたら、それは福音だ。
そこへ踏み出すのは蛮勇だ、とあなたは分かっているから、踏み出さないのだ。
そして、必要なのは、いまの自分の現状を客観的に観て、それを受け入れ、その現実を丁寧に生きる、という覚悟だ。
それは、新しいことを始めたり、一歩踏み出すよりも、よっぽど深く偉大な勇気を試される。
意識的にせよ、無意識的にせよ、あなたはそれを理解している。
だから、一歩が踏み出せない。
いや、踏み出さない。
人生を変えるのは、日常であると知っているから。
どこか遠くにある学びや、体験や、人の縁ではない。
この一呼吸、いまこの思考、この言葉一つ、いまのあなたの微笑みの積み重ねが、人生を人生を変えるのだから。
あなたの内なる神は、一歩踏み出そうとするあなたを制し、こう言う。
日常へ、帰れ。
と。
=
あなたは何も欠けているところのない、大輪の花のような存在だとしたら。
もちろん、花も咲く前は種であったり、新芽であったり、蕾であったりする。
けれど、それと花の形とは何の関係もない。
種であっても、新芽であっても、蕾であっても、しおれていても、あなたの本質には何ら関係がないことを、私は知っている。
花は誇らず、ただ咲く。
日常を、愛せ。