7月の上旬あたりから、オクラを育てている。
ベランダ菜園の初心者で、去年は茄子を育てようとしたが枯らしてしまった苦い思い出があるのだが、ホームセンターを訪れた際に息子が見つけてきて、育てることになった。
7月は買ってきた苗をプランターに植え替えて、化成肥料をやり、あとは朝と晩の涼しいときにたっぷりと水をやる。
しばらくは大きくなるのものんびりとしていたのだが、梅雨明けをしてぎらぎらした太陽を浴び始めた途端に、葉を大きく広げて驚くほどの速さで成長していく。
朝と夜の葉の大きさが、全く違うように感じることもあるほどで、あわてて100均ショップに支柱を買いに行った。
ついに先日、花をつけて、早くも一つ目の実が成りそうである。
オクラはすぐに硬くなってしまうそうなので、もう2,3日したら収穫して、枝を剪定する作業をしようかというところだ。
日曜朝の教育テレビの「趣味の園芸」や、Youtubeの人気の「オクラの育て方」の動画を熱心に眺めている息子に教えてもらった。
いまはほんとうに便利なもので、ネットで検索すれば大抵のことは調べられるし、Youtubeなどで分かりやすく解説してくれる動画もたくさん見つかる。
情報が均質化していくと、あとはもう「やるか、やらないか」という行動の違いでしかないのだろう。
行動の数が増える分だけ、結果が出る可能性が高くなる。
至極、単純な話だ。
そう考えると、去年の夏にナスで悲しい思いをしたのに、息子はよく再チャレンジする気持ちになったものだな、と感心してしまう。
悲しい思いや、何かでこっぴどく失敗したりすると、人はよく「もう二度とやってやるもんか」と拗ねる。
それは、「もうあんな痛い思いは、二度としたくない」という一種の防衛本能からくるものなのだが、それが行き過ぎると世界は灰色になり、人生から彩りと潤いがなくなる。
その怖れを越えて、一歩踏み出してみること。
そのチャレンジは、ほんとうに世界を豊かにしてくれる。
オクラがどう育っていくのか分からないが、息子と一緒に新しいチャレンジを楽しんでいこうと思う。
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そうこうしていると、去年の夏の終わりから息子と幼虫から育ててきたカブトムシの一匹が、とうとう力尽きた。
小指の先ほどの幼虫から、どんどん太く大きくなり、サナギを経て成虫までお世話してきたカブトムシの、死。
息子と近所の大きめの公園に自転車を走らせ、カブトムシが好きそうなクヌギの木の根元に穴を掘り、埋葬する。
手を合わせようか、と息子に声をかけ「なむなむ」と、蝉の声の下、しばし目を閉じた。
猫とかに荒らされないかな、と言う息子に、大丈夫だよ、と答えた。
帰り道の自転車を漕ぎながら、なぜ夏は生命力の豊かな季節なのに、死を感じることが多いのだろう、とふと思った。
生命あふれる季節、熱気のような気温、強い陽射し…それなのに、なぜか私にとって「夏」は「冬」よりも死を連想させることが多い。
お盆や終戦の日といったものが訪れるからだろうか。
それとも、夏が大好きな分、それが終わることを感じさせるものが死を感じるのだろうか。
そのどちらかかもしれないし、そのどちらでもないかもしれない。
オクラを愛でながら、カブトムシとの別れを惜しむ。
季節がめぐるように、出会いと別れもまためぐっていくのだろう。
帰り道、息子はまた夏の終わりにカブトムシの幼虫を飼いたい、と言ってきた。
ああ、また飼おう、と私は答えた。
アスファルトから立ち上る熱気は、湿気を含んで殊更暑かった。
夏、本番だな、と思った。