誰しもが自分自身のことを知りたいと思う。
自分の価値や才能もしかり、自分の正直な気持ちもしかり。
そのためには、瞑想などの静かな時間、あるいは運動などの身体を通して、自分との対話を深めていくことができよう。
自分という内面に深く潜っていくという、そういった手法もあるが、反対の方法もまた有効なように思う。
すなわち、自分の周りを見て、自分というものの内面を知る、というアプローチである。
誰かに言いたいことは自分に言いたいことであり、
誰かに言われることは自分がそう思っていること。
自分を深く知るためには、時にそんなアプローチもいいのだろう。
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相手を通して自分を知る、という考え方の参考に、麻雀というゲームで考えてみる。
将棋や囲碁、チェスなどの完全情報ゲームと違い、麻雀は相手の手牌やこれから来る牌が伏せられており、見えない情報がある中で行うゲームである。
個々のプレイヤーに明らかにされる情報は、自分の手牌と、相手の捨て牌、それからドラ表示牌だけである。
残りの牌の情報というのは、どこに何があるのか分からない。
では、プレイヤーはサイコロの目よろしく、運否天賦に任せて種々の判断をしているのかといえば、そうでもない。
強いプレイヤーというのは、残りの牌山に何が積まれているか、読んでいるのである。
どうやって?
麻雀というゲームは、一つ牌をもってくるたびに、一つ牌を捨てる。
その捨て牌というのは、もちろん相手のプレイヤーが「要らない」と判断した捨て牌だ。
ということは、捨て牌から相手の手の内に残された牌を、推測していくことができるのだ。
この推論をさらに進めると、相手の手牌にない牌が、残りの牌山に積まれている、と考えることができる。
そうなると、これから来る牌の想定がつき、それによって自分の手牌の行く末を決めることができる。
自分の手牌+相手の捨て牌
↓
相手の手牌
↓
残りの牌山
↓
自分の手牌の行く末
という順番で推測をしていく。
麻雀に慣れた人の多くは、精度の違いはあれど、こうしたパターンの思考をしている。
その精度が高い人ほど、麻雀の上手いと言えるのかもしれない。
麻雀を始めたばかりのプレイヤーは、自分の手牌ばかりを見ているが、手慣れた打ち手は自分の手牌と同じくらいに、場の捨て牌=相手の手牌を見ている。
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下世話な例えになってしまったが、ここで言いたかったのは、「相手を見る → 自分を知る」という図式である。
相手を見て、己を知る。
たとえば、誰かと話しているとき。
人の話を聞くというのは、難しいものだ。
親しい関係であればあるほど、相手との境界線を引くのが難しくなる。
求められてもいないのに、相手に何か言いたくなってしまう。
だが、そこで相手に言いたくなってしまうことは、実は自分自身に言いたいことなのだ。
自らの内面を、無意識的に相手に映し出し、それに対して「ああせえ、こうせえ」と言いたくなっているだけだ。
その話し相手は、己の内面を見せてくれているに過ぎない。
それが分かっていれば、境界線をもう一度引き直すこともできよう。
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自分の周りを見れば、自分自身を知ることができる。
たとえば、誰かに何かを言われて、傷ついてしまったとき。
「ほんと、仕事が遅いよね」
「あなたって、優柔不断よね」
「君はいつも人のせいにして逃げる」
そうしたことを言われて傷つくのは、実は「自分自身が」そう思っており、それにネガティブな評価を下しているからだ。
すなわち、誰かに言われることは、自分がそう思っていること、と捉えることができる。
もしそう思っていないなら、
「間違えないように、やってるんですよ」
「だから、決めてくれる君が必要なんだよ」
「えー?そんなことないよー笑」
と、軽く返すこともできよう。
もしくは、言われたこと自体、気にも留めないかもしれない。
人は、自分が意識する世界だけを見るものだから。
それが分かったからと言って「そう思っているからダメだ」とか、そういう訳ではない。
「ふーん、私はそう思っているんだ」
くらいのものでいいのだろう。
これからいくらでも変えていけばいい。
麻雀強者のように、相手の手から自分の手の行く末を決めればいい。
そうは言っても、自分の手ばかり見てしまうのも私だ。