日に日に、秋の色が濃くなっていく。
朝晩は涼しく、もう半袖では肌寒いくらいだ。
日中の陽射しにも、夏の力強さはなく、透明感を増している。
もう明日には、秋分なのだから、それも当たり前といえば当たり前なのだが。
長月に入ったころから、小さな紫の秋を見せてくれていた草花たち。
今日は、もうその枝に緑色の実がなって、風に揺れていた。
幼い頃の記憶を呼び起こす、その形。
原っぱで遊ぶと、ズボンにびっしりとくっついていた、その緑色の鞘。
アレチヌスビトハギ。
そういえば、去年もこの草花を眺めていたことを、思い出す。
=
昨日のエントリーで、古い傷について書いた。
とても、傷ついていたころ。
仕事でしか、社会とつながる術がなかった。
だから、ワーカホリックになる、と。
けれど。
仕事以外で社会とつながっていれば、満たされるのかといえば、そうでもないような気もする。
どこで、つながるのか。
それは、顔の見えない不特定の「誰かと」ではなくて、路傍に咲いた「小さな紫」であってもいいのかもしれない。
=
つながりとは、豊かさの一つでもある。
そして、豊かさとは。
いまここにあること。
ポジもネガも含めたこころの揺らぎを、慈しむことができること。
それは、風に揺れる紫の花を、見つめるように。
息を吸い、そして吐くことで、満ち足りること。
いま、目の前の人と同じように、目には見えない人と、つながること。
そんなことなのかもしれない。