大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

ストレッチ日記 ~身体の左右差と問題の類似

引き続き、ストレッチを続けている。
先週は何かとばたばたして、少しサボり気味だったが、また今週に入って少しずつ。

やはり、終わった後の達成感と爽快感、深く呼吸ができる感じ、そして身体の軽さというのは、気持ちがいい。
身体と会話しながら、ゆっくりと呼吸をする時間というのは、自分と向き合う時間といえるのかもしれない。

ある知人は、「ストレッチはかったるいから、目に見える結果の出る筋トレの方がいい」と言っていたが、やはり人それぞれなのだろう。
私の場合は、筋トレの方が続かないようだ。

さて、そんなストレッチだが、毎回同じメニューを続けていると、身体が左右差に気づくことがある。
同じ動きを左と右で交互にしても、左の方が固かったり、あるいは右の方が違和感があったりと、左右で非対称であることに気づく。

身体の歪み、とでもいうべきなのだろうか。
そう思うと、何とかその歪みを矯正しようと、その固い方の順番のときに力が入りすぎてしまうこともある。

そのような時というのは、不思議と心地よさが感じられない。
自然な身体になろう、歪みを矯正しようと思って、逆に身体に力が入って、不自然になっていることに気づいたりする。

面白いものだ。
人間の身体は、見た目は左右対称かもしれないが、その実、まったく非対称であるはずなのに。
顔を見てみれば、目の形、眉毛の形、耳の形…左右非対称であることは、よくわかる。
まして、身体のなかの臓器にしたって、非対称だ。

非対称が、不自然であるわけでもない。
その逆で、歪み、ずれ、差異というのは、わたしをわたしたらしめているものだ。

不完全さとは、パーソナリティなのだ。

それなのに、気づくと無意識のうちに、左右対称に矯正しようとしてしまう。
完璧主義とでもいうべきか、それとも、理想主義というべきか。

身体における、左右差、非対称。
それは、ある意味で人生における「問題」と似ている。

ときに人は、思いもよらぬ問題に出くわし、自分を見失う。

あるときは、大切な人に裏切られ。
ある人は、ずっと尽くしてきた仕事を失い。
あるときは、お金の問題を抱え。
ある人は、だらしない性格で周りから嫌われ。

人が生きる中で抱える、さまざまな問題。

それにぶつかったとき、人は怒り、嘆き、悲しみ、憤り、無気力になり、あるいは誰かのせいにしようとする。
一通りのその過程を通ると、やがて人はその問題の原因を自分に求めるようになる。

自分が至らなかったから、この問題を引き起こしたのだ、と。
他責にせず、自分には何ができるのかを考える、とても誠実で、成熟した世界へのアプローチだ。

そして、その至らなかった自分を変えようとする。
自分が至らなかったから、この問題が起きたのだから、自分の〇〇を直せば、問題は解消されるはず、と。

ところが、多くの場合、そのアプローチはうまくいかない。

自分を矯正することに、多大な自己否定の暗示をかけているからだ。

そうした否定のエネルギーは長続きしないし、仮に幸いにして、その問題が自分の望む形で解決したとしても、また次の問題がモグラ叩き式に出てくるだけだ。

ほんとうのところは、おそらく。
問題とは、気づいたらそこで終わりなのだ。

その問題を引き起こした自分が、何か悪いわけではない。
もともと、そういう人だったのだ。

問題を引き起こす原因と、まったく同じ原因で、人は才能を開花させる。
それは、誰かから嫌われる理由と、まったく同じ理由で、誰かから愛されることと似ている。

問題とは。
自分がそういう人間だった、と気づかせてくれるもの。

そして、気づいたら、そこで終わりなのだ。
あ、そうか、わたしはそういう人だったんだ、と。

なんだ、裏切らせてあげられるほど、わたしは懐の深い人なのだ。
なんだ、わたしはもっと自由に生きていい人なんだ。
なんだ、わたしはお金のありがたさを分かる人なんだ。
なんだ、私がおおらかなことで、誰かを救ってるんだ。

それは、ストレッチの左右差と同じように。
あ、そうか、左の方が、固いんだ、と。

ただ、気づくだけ。
それをコントロールしようとしないこと。
ただ、気づくだけでいいんだ。

ストレッチは、いろんなことを教えてくれる。