大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

私たちをラットレースに駆り立てる「罪悪感」を癒すには「くつろぐ」ことであり、それは自分を抑えないこと。

「罪悪感」があると、私たちはなかなか休んだり、くつろいだりすることができません。

そえをゆるめたり、癒したりするためには、自分を抑えないことが一番のようです。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.くつろぎとは、何も抑えないこと

「くつろぎ」とは、あなたのハイアーパワーや、家族、愛する人、あなたがともに働く人々すべてとの生きたパートナーシップです。

すべてを賭けて100パーセント与えているときは、自分自身からも人生からも受けとり、あらゆることがやすやすと楽に運びます。

何らかのかたちで自分を抑えていると、ものごとはすべて困難になります。

困難になるのは罪悪感があるからです。

そこには「自分がつらい目にあえば罪悪感をつぐなうことができる」という観念があるのです。

それは「見てください、私の未来の人生がどんなにつらいかを。私っていい人でしょう?」と言っているのです。

そして「役割」や「ルール」「義務」によって罪悪感をつぐなおうとします。

でも、それも防衛のひとつなので、何も受けとることはできません。

そのかわりに困難やゆきづまり、無味乾燥な感覚におそわれるのです。

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.293

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2.「罪悪感」は私たちをラットレースに駆り立てる

今日のテーマは、「罪悪感」でしょうか。

ここでもさんざん扱ってきた「罪悪感」ですが、今日は「罪悪感」を持っているゆえに起こる「休めない、くつろげない」傾向について、見てみたいと思います。

「罪悪感」の心理

「罪悪感」とは、自分とは罪深い人間であり、罰を受けなければならない、と感じる感情のことです。

それゆえに、自分を幸せから遠ざけようとして、人生を「ハードモード」にしてしまう作用があります。

わかりやすいのは、「誰かを傷つけてしまった」、「何もできなかった」、「助けられなかった」、といった経験から抱いてしまう「罪悪感」です。

それ以外にも、「親や社会、宗教から受け継いだ罪悪感」、「恵まれていることへの罪悪感」など、一見すると気づきにくいものもあります。

そうした「罪悪感」を持っていると、自分が幸せになったり、周りの人からの好意や愛を受けとったり、自分をいたわり、甘やかすことが難しくなります。

それは、「こんなにも罪深い私」とバランスを取るために、「罰=つらいこと、しんどいこと、イヤなこと」を求めるためです。

自分を傷つけ、痛めつけることで、罪を償おうとするわけです。

この「罰」が、自分を大切にしてくれない人や環境であったり、ハードワークだったり、あるいは心身の不調だったりします。

ミスター罪悪感の私はというと、ハードワークでしたね…(遠い目)

「罪悪感」は、終わりのない回し車で走るラットレースに、私たちを駆り立てるようです

「罪悪感」があると、休めない

ハードワークをしていると、休むことができません。

自分が休んでいることに、さらなる「罪悪感」を覚えるので、ハードワークをしている方がラク、というわけのわからない状態になったりします。

このあたりは、「罪悪感」の裏返しである「無価値感」と深くかかわるところです。

「自分には価値がない」、もしくは「自分は罪深い」と思っていると、くつろいだり、自分を休めたりすることができません。

これは実体験をもって、そうだと言えます笑

そこには「自分がつらい目にあえば罪悪感をつぐなうことができる」という観念があるのです。

はい、無意識にそう思ってしまうんですよね…

けれども、それはまやかしです。幻想です。

どんなに自分がつらい目にあったとしても、「罪悪感」はなくなりません

また、それを「ルール」や「役割」、「義務」といったもので償おうとしても、同じです。

ただただ、徒労感と満たされない気持ちが、残るだけです。

そして、たとえハードワークをしたことで、誰かから認められたり、ねぎらわれたりしたとしても。

それを受けとることはできません。

袋小路のような行き詰まりと、どこへも行けないという閉塞感が強まるばかりです。

3.くつろぐとは、自分を抑えないこと

くつろぎが、「罪悪感」をゆるめる

いかんですね、「罪悪感」について書いていると、どんよりした内容になってしまいますね笑

そうした「罪悪感」をゆるめるのに、「くつろぎ」が必要だと引用文では言っています。

「罪悪感」がゆるむから、「くつろぐ」のか、
それとも、
「くつろぐ」から、「罪悪感」がゆるむのか。

その両方とも、正しいと思います。

何にせよ、自分に余裕とくつろぎ、安らぎと休みを与えることは、必要なことです。

弓にしても、ずっと張り詰めているわけにはいかないですから。

「くつろぎ」とは、自分を抑えないこと

さて、そうした「くつろぎ」と聞くと、どこか時間的な余裕を私たちは思い浮かべます。

もちろん、そうした時間的なくつろぎも大切です。

しかし、今日のテーマでは「何も抑えないこと」が「くつろぎ」だと言います。

自分が感じることを、そのままにすること。

自分を出すことを、抑えようとしないこと。

自分が自分でいること。

そうしたことが、「くつろぎ」だと言います。

何かを抑えようとしていると、「罪悪感」と絡んで、おかしなことになります。

自分が自分でいるとき、「罪悪感」が入り込む余地はありません

ありていに言えば、「自分らしくあること」という表現になるのでしょうか。

よく聞く言葉かもしれませんが、やはりそれは真実のようです。

もちろん、だからといって、自分を抑えることをすぐにやめることはできないかもしれません。

けれど、自分の向かうべき方向が、「ラットレース」ではなく、「自分を抑えずに、くつろぐ」方向であると思うだけでも、違うのではないでしょうか。

少しずつ、少しずつでいいんです。

そんなに罪を償おうと、ラットレースにいそしまなくても、大丈夫ですから。

今日は「罪悪感」とくつろぎについて、お伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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