大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

私たちはもともと「無垢」な存在であり、生きることはそれを思い出す旅である。

「無垢」であることは、愛する人にとってかけがえのない贈り物になります。

「無垢」とは純粋さ、童心、無邪気さであり、私たちの本来の姿です。

またそれとともに、行かなければならない場所を持たない、という意味でもあります。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.人間関係のマスタリーとは、無垢のまま愛する人とともにいること

「無垢」というのは、スピリチュアルなマスターが到達する意識のレベルです。

それは「行かなければならないところ」をもたない状態のことです。

人生とは、本当はいつでも「いま・ここ」で起きているのです。

 

無垢であるということは、もうこれ以上、自分を罰する必要も、証明する必要もないことを知っているということです。

自分を証明するのは否定的な観念への補償行為であり、多くの時間を要するうえ、本当にうまくいくことがありません。

けれども、自分が無垢であることを知れば、苦痛と代償という悪循環から解き放たれます。

そこで、あなたは自分自身に受けとることを許し、世界を心のなかに招き入れるのです。

 

あなたが無垢であるとき、パートナーは癒しと新鮮な驚きや楽しみの源泉になります。

無垢であることは、何かの行動をしなくても、あなた「存在」そのものという人生最高の贈り物を与えることです。

そこには無邪気さとよろこびと遊び心があります。

それこそ何よりもまさにあなたの真実なのです。

 

あなたがこの真実を生きようとするとき、その生みだす力は世界を癒し、ことにパートナーを癒す力の源になります。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.315

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2.「無垢」というギフト

今日のテーマは、「無垢」でしょうか。

それは、私たちの目指す心の姿であり、人間関係のキーストーンでもあります。

 

「無垢」という言葉に、どんな印象を持ちますでしょうか?

けがれを知らない、子どもを思い浮かべることが多いかもしれません。

「無垢」であることは、赤ちゃんや子どもの専売特許なのでしょうか。

決して、そうではないんですよね。

私たちは、誰もが「無垢」な存在です。

それは、何も知らないという意味ではなく、けがれていない、あるがままでいる、というほどの意味です。

私も、私の周りの人も、見知らぬ人も、そして、あなたも。

「無垢」であることは、罪悪感と無価値観から自由である、ということです。

本来、人は何も罰せられる必要もありませんし、また、価値がある/ないなどと考える必要もないんですよね。

生まれてきたばかりの、赤ちゃん。

その赤ちゃんを、罰しようと思いますでしょうか。

その赤ちゃんの価値は、あるのだろうか?とか、考えますでしょうか。

そんなことは、考えませんよね。

ただただ、そこにいて泣いて笑っていること。

ただただ、その存在が、周りの人にとっての最高のギフトになっています。

私たちは、生まれてきたこと、ただそれだけ、もう十分なんです。

それ以上のことも、それ以下のことも、ありません。

それが、「いま・ここ」にいるという意味です。

それなのに、人は生きていく中で、いろんなものを抱えます。

先に挙げた罪悪感や無価値感が、最たるものかもしれません。

やるせなさや、胸が張り裂けるような悲しみ、あるいは、成功や栄誉といったものも、同じかもしれません。

その中で、わざわざ苦痛や犠牲を選んだりもするのでしょう。

けれども、その流れの行きつく先は、やはり「無垢」であることなのでしょう。

「無垢」でいるとき、自分自身という存在の偉大さ、尊さ、そしてかけがえのなさを、世界に与えることができます。

「無垢」でいるとき、あなたは純粋さをまといます。

「無垢」でいるとき、あなたは童心に遊びます。

「無垢」でいるとき、あなたは無邪気さとともにあります。

「無垢」でいるとき、あなたは驚きと喜びの中にいます。

それらは、愛する人に与える、唯一無二のギフトです。

3.「無垢」とは、行かなければならないところを持たないこと

「無垢」でいるとき、行かなければならないところを持ちません。

私たちは、いつもどこかに「行こう」とします。

心が迷うとき、辛いときもそうですし、夢や希望に向かっているときも、同じです。

いつもどこかへ「行こう」とする。

けれども、私たちは、どこへも行かないんですよね。

どうしてかわからないけれど、この世の生を受けることを選んだ。

そしていつの日か、この世界に別れを告げることになるのは、確かなことなのでしょう。

私たちは、どこへも行かないんです。

この世に生まれてきただけで、じゅうぶん。

いまこの瞬間を生きているだけで、じゅうぶん。

 

カウンセリング・モニター100名様への感謝に寄せて。 ~これまでと、これからと。

以前にこちらでお書きしましたが、「行」という漢字は、十字路をあらわします。

上下左右、東西南北、360度、どこへでも行ける地点に立つこと。

それを、「行く」と呼びます。

それは、まだどこにも行っていないのかもしれません。

けれどもそれは、どこへでも行ける。

あなたはどこへも行かないし、どこへでも行ける。

それを、あなたは自分自身で決めることができる。

しかし、罪悪感や無価値感があると、その行き先が限られてしまうように見えます。

この道に行っては、いけない。

あっちに行かないと、いけない。

ほんとうは、そうではないんですよね。

どこへでも行けるし、どこへも行かなくてもいい。

「無垢」であることというのは、そうしたことを思い出させてくれます。

私のカウンセリングの中で、いつもそうしたことをお伝えしたいと思っています。

人間関係のマスタリーとは、無垢のまま愛する人とともにいること

まさに、今日のタイトルの通りだと思います。

私たちは、「無垢」であることを、思い出す旅のなかにいます。

そのなかで、愛する人と童心に還る時間を過ごすことができたのなら。

それは、一つの奇跡のようにも思えるのです。

 

今日は、心理「学」というよりも、ずいぶんと情緒的な文章になってしまいました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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