「自分らしさ」を取り戻していくと、時に周りと葛藤や衝突が起こったりします。
「自分らしさ」について考えるとともに、自分らしく生きているのに周りに嫌われることが起こった場合に、持っておきたい視点についてお伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.自分に真実であるとは、だれに対しても自分をいつわれないこと
自分自身に真実であって、自分の存在の中心にいるのなら、生命の自然な流れや目的が生まれます。
ところが、私たちが自分の中心に入ると、まわりには居心地が悪く感じる人が出てくることがあります。
それは私たちが自分の真実を生きはじめると、その人たちも眠りから揺り起こされるからです。
そして、役割や義務にしばりつけられた安全な生き方をしないように求められるからです。
ただし、私たちがまわりの人々を居心地悪くすることはあっても、彼らを裏切ることはできません。
自分自身に真実を生きようと決意していると、だれも裏切ることができなくなることでしょう。
あなたの真実はまわりの人々へも広がり、その人の真実を呼び覚まします。
それによって彼らもまた、自分の一歩を踏みだすのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.330
2.「自分らしさ」と「問題」の関係
今日のテーマは、「自分らしさ」でしょうか。
私たちの抱える多くの問題は、この「自分らしさ」を見失ったときに現れます。
「自分らしさ」から離れるほどに、問題を抱える
「自分らしさ」、あるいは「本来の自分」。
後者の「本来の自分」でもいいのですが、私はそもそも「本来の自分って、あるのだろうか?」と考えてしまうのですよね。
恋人の前での自分。
会社で仕事をしている自分。
家族のなかでの自分。
それぞれに、違う自分がいるのは、当たり前だと思います。
そうしたたくさんの自分以外に、「本来の自分」があるというよりも、人は相手によっていろんな顔を見せるのが、ある意味で当然なのでしょう。
なので、ここでは「自分らしさ」で統一して書いていきたいと思います。
さて、この「自分らしさ」。
無理をしておらず、とても自然でいられて、肩に力が入っていなくて、楽に呼吸ができる状態を、「自分らしさ」と表現してみます。
今日の引用文にあるように、「中心」あるいは「センター」といった表現も、同じ意味だと思います。
その「自分らしさ」を見失うと、私たちはさまざまな問題を抱えます。
人間関係、パートナーシップ、仕事、あるいはお金…
カウンセリングでお伺いするような問題の多くは、「自分らしさ」から離れてしまったことが原因で起こると見ることができます。
だから、カウンセリングでお話をお伺いするときは、「この方の光の部分は、どこにあるんだろう?」という視点で見るようにしています。
「自分らしさ」から離れてしまった分だけ、問題もまた大きくなります。
これは見方を変えれば、「問題とは、『自分らしさ』を思い出すために起きるもの」と見ることもできます。
傷ついた経験が奪う「自分らしさ」
さて、こうした「自分らしさ」からズレてしまう、離れてしまうのは、過去の傷ついた経験が原因である場合が多いものです。
もともとは、とっても情熱的に、大切な人に愛を差し向ける人がいたとします。
しかし、とっても大好きだったパートナーから、「一緒にいると暑苦しいし、疲れる…」と言われて、別れることになってしまったら。
自分の愛し方は、どうも間違っているらしい。
だから、それを変えないといけない。
つとめてクールに、冷静に、理性的でいないと、嫌われてしまう。
そんなふうに、「自分らしさ」から離れていってしまうこともあるでしょう。
あるいは、もともとは、のんびりとマイペースで、自分の世界を持っている人がいたとします。
けれども親のしつけが厳しく、「そんなにのんびりしていたら、将来苦労するよ!もっとシャキッとしなさい!周りに気を配りなさい!」と言われ続けたら、どうでしょうか。
なんでもシャキシャキと頑張ってこなしていくように、自分を変えていこうとするかもしれません。
もちろんそれが、いい/悪い、ということではありません。
クールに愛することによって、あるいは、なんでも自立的にこなしていくことによって、得られる恩恵もまた、あるでしょう。
けれども、そこで「自分とは、こういう人間だ」「こうならないといけない」と思っていると、「自分らしさ」との間に徐々にギャップが生まれてきます。
言ってみれば、もともと持っていた宝物のような「自分らしさ」を、まるでゴミのように扱って嫌ってしまうわけです。
それはある種の自己否定になりますから、とてもしんどいものです。
このように、傷ついた経験は、「自分らしさ」を奪ってしまいます。
3.自分らしく生きても嫌われるパターンとは
自分らしくなると、嫌われる?
「自分らしさ」を奪うのが、傷ついた経験。
しかし、私たちは傷ついた経験そのものがイヤなのではなく、そこで感じた「感情」をまた感じることに、強い抵抗を覚えます。
そこに触れたくないわけですし、その「感情」を感じないために、そのときの自分から離れようとするわけです。
カウンセリングには、そうした抑圧した「感情」を解放する効用があります。
その「感情」を安全に感じて、流していくと、だんだんと「自分らしさ」が戻ってくるものです。
けれども、そうして「自分らしさ」を取り戻していくと、周りの人と思わぬ葛藤や衝突が起こったりします。
これは、自分を肯定したり、受け入れたりしていく過程ではよく起こる「あるある」な事象です。
「なんか、前よりも状況が悪くなったような気がする…」といったように。
そうしたときに、「前の自分に、戻らないといけないのではないか」と思ったりしてしまうかもしれません。
けれども、大切なのは「自分がどう感じるか」です。
「自分らしい」という原点に立ち返るならば、前の自分でいた方が楽なのか、それともいまの自分の方が自然で無理していないのか、のいずれなのかを、よくよく自分に問いかけてみることです。
まあ、そんなに難しく考えなくても、「自分らしさ」を取り戻していくのは、川の流れに乗るようなものです。
途中で濁流があったとしても、もう上流には戻れないのだと思います。
大河の流れを止めることができないように、一度「自分らしさ」に立ち返ろうとしたら、それだけで大丈夫なんだと思うのです。
自分らく生きても嫌われる、2つのパターン
そうはいっても、「なんで自分らしく生きているのに、周りに嫌われるんだ?」と思われるかもしれません。
一つには、今日の引用文の通りですね。
自分らしく生きるあなたを嫌うのは、もしかしたら「自分らしさ」を見失っている人かもしれません。
それは私たちが自分の真実を生きはじめると、その人たちも眠りから揺り起こされるからです。
これは、とても分かりやすいですよね。
「ドリームキラー」という言葉もよく聞きますが、「お前だけ抜け駆けするなよ」という意識がはたらくのかもしれません。
もしかしたら、あなたがあなたらしくいることで、周りの人との軋轢が増えたように見えるかもしれません。
けれども、必ずそれは、周りの人にとって大きな恩恵になります。
あなたの真実はまわりの人々へも広がり、その人の真実を呼び覚まします。
それによって彼らもまた、自分の一歩を踏みだすのです。
引用文にある通り、「自分らしく生きる」ことは、それだけ周りにも大きな恩恵を与えてくれます。
もう一つは、「自分らしく生きているからこそ、嫌われることもある」という視点です。
「自分らしさ」を持つということは、個性を持つ、ということです。
それは、リンゴはリンゴらしく、イチゴはイチゴらしく在る、ということです。
言葉を変えると、一流のリンゴ、一流のイチゴになる、ともいえるでしょう。
ここに、見事な赤々としたリンゴがあるとします。
とても丸々と大きくて、一流のリンゴです。
けれども、世の中にはリンゴに興味がない人がいます。
リンゴが嫌いだという人もいます(あまりいないかもしれないので、リンゴを例えに出したことを後悔しています笑)。
さて、そうしたリンゴが嫌いな人がいたとして。
そのことと、リンゴがリンゴであることと、何も関係はありません。
いえ、リンゴがリンゴらしくあればあるほど、それを「嫌い」という人が現れるものです。
言ってみれば、「嫌い」という人がいるということは、「自分らしさ」を表現できていること、一流のリンゴであることの証明でもあります。
これが、自分らしくいるのに、周りに嫌われる場合に考えられる、もう一つのパターンです。
もしそうだとするなら、リンゴが嫌いだという人に、無理矢理にリンゴを売ろうとしたり、リンゴの魅力を語るのは、あまり意味がないことかもしれません。
それよりも、リンゴが好きで好きでたまらない、という人に、その美味しいリンゴを届けることを考えたり、リンゴが好きな人がたくさんいる環境を探す方が、よほど楽になるのでしょう。
ただ「嫌われるくらい、自分らしさが出ている」ということを受けとるくらいで、ちょうどいいのでしょう。
今日は、「自分らしさ」とともに、自分らしく生きても嫌われるときのパターンを考えてみました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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