若かりし頃、お金を貸したけれど返ってこないということがありました。
そんな苦い経験を交えながら、「信頼」の心理について少し考えてみたいと思います。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.その人を信頼していないのは、愛していないから
あなたは実際は自分のことすら信頼していないのです。
なぜなら自分を信頼している分だけ、人のことも信頼できるからです。
信頼するかわりに何か別のこと、たとえば人をコントロールしているのです。
あなたがだれかを信頼していないとき、きっとあなたはその人が必要だと感じ、その人が魅力的に見えたり、何かしら欲望を感じるかもしれません。
でも、そこであなたが感じているのは愛ではありません。
信頼とは、その人が自分の誠実さと真実に向かう援助をするために、あなたの心の力を相手に与えることです。
愛と切りはなすことのできない、もっとも大切な要素である信頼を与えましょう。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.414
2.「信頼」は裏切られることはない?
今日のテーマは、「信頼」です。
「愛」に近いともいえるこの概念について、少し考えてみたいと思います。
「信頼」しているのか、「期待」なのか
いつもの流れだと、「心理学的には信頼とは…」という書き出しになるのですが、以前に書いた気がして検索したら、やっぱり書いてました笑
「信頼」とは、相手の価値を見続けることであり、愛することの一部。
説明はこちら↑をご参照いただくとして、今日は「信頼」にまつわる私自身の経験談から、お話ししてみたいと思います。
「期待は裏切られるが、信頼は裏切られることはない」
そんな格言があります。
私が心理学を学びはじめたころ、とても感銘を受けた格言の一つです。
「期待」とは、自分の欲求の表現方法の一つです。
自分の望む通りの結果でないと、受け入れられないため、「期待」はすべて裏切られるものです。
しかし、「信頼」はそれと異なります。
「信頼」とは、相手の価値や魅力、才能、可能性などのポジティブな面と、ネガティブな面、その両方を見つめることです。
振り返って考えてみると、「信頼は裏切られることはない」という言葉を信じていた私は、どこかで「いつかは自分の望む現実になるはず」という想いを抱いていました。
それは、形を変えた「期待」であり、プロセスそのものを楽しむ「信頼」とは異なるものだったといえます。
「信頼」と「期待」。
なかなかに、その判断は難しいものだと思います。
ほんとうの意味で「信頼」をしていれば、「裏切られた」と感じることもないのかもしれません。
けれども、「裏切られた」と感じることだって、ありますよね。
みんな感情を持った、にんげんですもの笑
「信頼が裏切られた」と感じた、ある経験
私の個人的な経験で、「信頼」が大きく裏切られたと感じたことがありました。
20代のころ、ハードワークに勤しんでおりました。
休みなく働いて、自分の喜びよりも、仕事や周りの都合を優先していました。
それは無価値観ゆえに、自分の価値を証明するためにしていたともいえます。
そんな折、知り合いの方からお金の無心をされました。
ある個人事業をされている方でした。
その方とは何度もお酒を飲んだり、いろんな話をしてきた関係で、私の数少ない仕事の外でのつながりでした。
ご想像の通り、私は二つ返事で、その方の要求に応えました。
それも一度ではなく、二度、三度と。
しかも、書面を残すことなく、口頭だけで。
お金の多寡はもちろん人によって違いますが、私にとって少なくない金額を貸しました。
「信頼」していたというよりも、自分の無価値感ゆえに、そうしていたのでしょう。
助けたい症候群と見ることもできるのでしょう。
結果として、お金は返ってきませんでした。
その方と連絡がつかなくなり、縁も切れてしまいました。
その方を探そうとすることを、私はしませんでした。
まあ、探したところで、借用書も何も残っていない以上、どうすることもできないのでしょうけれども。
お金が返ってこなかったことは、もちろん痛いは痛いのですが。
それ以上に、私にとっては「信頼が裏切られた」と感じることの方が、しんどいものでした。
3.それでも、「信頼」が裏切られることはない
「信頼」でないことに気づくのも、またプロセスの一部
「信頼が裏切られた」と感じるとき。
私たちは、その相手とのつながりが切れてしまったように感じます。
もしかしたら、それは私たちの「信頼」が「信頼」ではなく、実はコントロールのような、別のものだったのかもしれません。
もちろん、そうするのにも事情があり、やむを得ないことだったのでしょう。
それは悪いことでも、なんでもありません。
しかし、もしそれが「信頼」でなかったとしたら。
もしかしたら、自分の方が、つながりを切ってしまったのかもしれません。
自分の望まない結果が出なかったことで、相手を「信頼できない人」という評価をして、つながりを切ったのは、自分自身なのかもしれません。
それは、とりもなおさず、自分自身を「信頼」していないことの、裏返してもあるのですが。
もし自分を、相手を「信頼」をしていたとしたら。
相手の事情に想いを馳せ、そしてその中で相手のした選択を尊重することができます。
「あの義理堅い人がお金を返さないのだから、よほどの事情があるのだろう」、と。
その上で、自分自身の感じたこと、そしてその選択を信じ、それをまた尊重することができます。
「あのときの自分のした行動が、間違っていたわけでもない」
「あのときの自分を、そしてあの人を、私は信じ続ける」
というように。
それは、いつかお金が返ってくることを信じることでは、ありません。
「自分からは、この手は離さない。つながりは、切らない」という意思です。
私たちは、自分から切ろうとしないかぎり、人とつながることができます。
きれいごとに、聞こえますでしょうか。
自分だけバカを見るじゃん!と思われますでしょうか。
私は、そうは思わないのです。
それでも、「信頼」が裏切られることはない
何度も繰り返しになりますが、「信頼」でなくて、相手をコントロールしようとしていたとしても、それ自体は悪いことでも何でもありません。
ただ、そうしたかった自分を受け入れ、認め、そしてその自分の行動を許すだけです。
「信頼」でなくてコントロールをしようとしたとしても、それが間違いでもなんでもありません。
たとえ、相手をコントールしようとしたとしても。
たとえ、自分自身が信頼できなかったとしても。
たとえ、それが偽りの「信頼」であったとしても。
それが悪いことでも、なんでもありません。
ただ、そうだったんだな。
そう、気づくだけです。
そう、認めるだけです。
私たちは、どんな間違いを犯しても、それを訂正することができます。
そこから、学ぶことができます。
前に進むことができます。
切れたつながりは、またつなぎ直すことができます。
だから、「信頼は裏切られることはない」んです。
「信頼」を考えるとき、ぜひ持っておきたい視点です。
今日は「信頼」について、私の個人的な経験をまじえて、お伝えさせていただきました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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