自分を「犠牲」にしていると、そのうめあわせでさまざまな刺激物を必要とするようになります。
そして、そこに罪悪感が絡むと、悪循環を引き起こしてしまうことがあります。
しかしそれは、自分の中心と才能を教えてくれるチャンスでもあるようです。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.自分を犠牲にするほど、何かに溺れる
私たちが食べ物や仕事、セックス、アルコール、ドラッグなどに溺れるのは、すべて自分を何かの犠牲にしていることへのうめあわせです。
本当に与えていれば、受けとることができるので、とりつかれたように何かに溺れることはありません。
沈溺は私たちをぼろぼろに疲れさせます。
そこには、「沈溺ー罪悪感ー犠牲」という悪循環があります。
とりつかれたように何かに溺れると、そのあとで罪悪感を覚えます。
そこで自分を犠牲にすることによって、その罪悪感をやわらげようとします。
しかし、しばらく自分を犠牲にしつづけてくたくたになると、今度はそのうめあわせに、思いきり何かに溺れてもかまわないのだと感じます。
そして、自分がつくした相手に対する、ある種の反逆や恨みから、無茶苦茶にのめりこむのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.135
2.「いい人」をするほどに、刺激物が必要になる
今日のテーマは「犠牲による刺激物への依存」でしょうか。
刺激物へ依存してしまう心理について、考えてみたいと思います。
「いい人」がハマりやすい刺激物の罠
人生には刺激が必要です。
しかし、刺激物に過剰に依存したり、溺れてしまうことは、とてもしんどいものです。
ここでいう刺激物とは、実にさまざまなものがあります。
本文にある食べもの、仕事、セックス、アルコール、ドラッグに加えて、ギャンブル、恋愛、買い物なども、刺激物といえるでしょう。
私の場合は、仕事、アルコール、ギャンブルに一通り沈溺して、いまは「甘いもの」でしょうか笑
誰にでも、そうした刺激物の対象があるものです。
そうした刺激物を必要とする心理は、「自分を何かの犠牲にしていることへのうめあわせ」であると引用文では書いています。
「犠牲」とは、自分ではない誰かのために、自分が幸せではない行動を取ることを指します。
やっていることは素晴らしいことでも、本人に充実感や喜びはなく、やればやるほどに乾いて枯れていくのが、「犠牲」のおそろしさです。
「犠牲」をしてしまう裏には、自分の内面に満たされない何かがあります。
私の場合は、寂しさや孤独感だったでしょうか。
両親と突然死別した寂しさを埋めるように、ハードワークに勤しみました。
仕事に沈溺している時間は、自分の役割や居場所がありますし、頑張れば認めてもらえるし、満たされる感じがするんですよね。
けれど、仕事が終わると、何もない自分に戻るわけです。
その空虚な時間を、アルコールで埋めようとしていました。
美味しくお酒を飲むというよりは、酔い潰れるために飲んでいるような。
そんな飲み方をしていました。
結局のところ、「犠牲」をする=表でいい人をするほどに、そのうめあわせ=刺激物が必要になるようです。
罪悪感をブースターにして、悪循環していく
さて、こうした「犠牲」によるうめあわせの刺激物は、なかなかやめようと思っても難しいものです。
それは、罪悪感が絡んでくることが、大きな理由の一つです。
問題のデパート、総合商社といえる「罪悪感」。
ほんとに、あらゆる問題に顔を出してきますね、罪悪感って…あらためて、このシリーズを書いていて、それを感じる次第です。
刺激物に沈溺すると、その時間はいいのですが、それが終わると罪悪感をおぼえます。
「また、やってしまった…」
「ほどほどにしようとしたはずなのに…」
「自分は本当に弱くて、ダメだな…」
お酒を飲まれる方は、二日酔いの朝の、頭痛と吐き気とともに迎える、あの陰鬱な感じを思い浮かべると、分かりやすいかもしれません。
その強烈な罪悪感をやわらげようと、また「犠牲」的な行動に走るわけですね。
いい人をすることで、自分が犯した罪を軽くしてもらおうとするような、そんな心理です。
しかし、それは自分をさらに疲れさせます。
それがある点を越えると、「もう、いいだろう」「これだけやったから、大丈夫だよね」とばかりに、また刺激物に溺れにいってしまうわけです。
そして、以前よりも強い刺激物を求めるようになります。
たくさん自分を犠牲にして頑張ると、その分、ひどく酔いつぶれる。
私もすごく、心当たりがあります笑
このように、「犠牲」から刺激物を求める行動は、「罪悪感」をブースターにして、悪循環していきます。
3.犠牲からではなく、才能から与える
自分の中心は、どこだろう?
さて、ここまで「犠牲」によって刺激物を依存する心理、そしてそれが罪悪感によって悪循環していく流れを見てきました。
さすがにこれだけだと、重くなってしまうので、そのゆるめ方を最後に少しお伝えしたいと思います。
なぜ、「犠牲」的な行動をしてしまうかといえば、それは自分の中心から外れてしまったからです。
これは「問題」でも同じ考え方をしますが、本来の自分から外れてしまった分だけ、「問題」が生まれ、大きくなります。
言い換えると、「問題」は本来の自分に戻るために起こるもの、本来の自分を教えてくれるものと言えます。
刺激物に沈溺するのも、同じことがいえます。
本来の自分から外れてしまった分、何かの刺激物に溺れざるをえなくなるわけです。
これを逆から見れば、刺激物に依存している状況は、自分の中心から外れていることを教えてくれるわけです。
あなたが自分に中心にいないところ、つまり自分自身の真実ではないという部分で自分を犠牲にしています。
同上 p.135
自分の中心から与える、ということ
「犠牲」とは、与えることに似ていますが、実はその逆で、自分を痛めつける行為です。
本来の意味での与えるとは、見返りを求めません。
相手が喜ぶことをしてあげられて、そのこと自体に喜びを感じられる行為で、愛することの一部です。
本当に与えていれば、受けとることができるので、とりつかれたように何かに溺れることはありません。
本当に与えることができれば、何か刺激物に溺れることはない、と引用文にもあります。
与えること自体が楽しく、喜びに満ちあふれていれば、その外に何かを求めなくてもいいわけです。
では、本当に与える、とはどんなことでしょうか。
二つのことが揃うと、本当に与えることができると私は思います。
一つは、自分が満たされていること。
自分の内側が満たされていない代わりに、外に目を向けると、「犠牲」になってしまいます。
寂しさからハードワークに精を出していた、かつての私も、そうですよね。
まずは、自分を満たし続けること。
「まずは自分を大切にしよう」という言葉は、本当に深いものです。
そしてもう一つは、自分の才能を与えること。
自分の中心に戻るということは、自分のかけがえのない愛や才能とつながる、ということでもあります。
それは、周りに与えるために、自分に与えられた贈り物です。
そのことを意識し続けると、外に刺激物を求めなくてもよくなります。
その中心からは、まわりの人が本当に必要としている贈り物、つまりあなたの才能を与えることができます。
このすばらしい贈り物は、あなたという存在の一部なのです。
同上 p.136
今日は、「犠牲」から刺激物を求める心理と、それを悪循環させる罪悪感についてみてきました。
そうした刺激物に頼り、依存してしまうことは、誰にでもあるものです。
しかし、それに気づいたときは、自分の中心に戻るチャンスでもあるようです。
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