絆やつながりが切れたと感じたとき、私たちはその代わりに「癒着」します。
しかし、そうしたときに切れてしまっているのは、他人とのつながりではなくて、自分自身とのつながりです。
そうした「癒着」の心理と、「癒着」できる人の才能について、お伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.癒着が起こるのは、絆がそこなわれたとき
だれでも親しみや親密感、仲間に含められること、そして、絆を必要としています。
ところがその絆の感覚がそこなわれたり、それが存在しないように見えるとき、私たちは生きのびるために何らかの親しさが必要なので、癒着を選ぶのです。
そうすれば、少なくとも人と親しいような感覚がもてるからです。
しかし、それは真実の絆ではありません。
だれかと癒着していると、自分自身の中心や、本来の自己を捨ててしまいます。
人との絆が感じられる場合は、自分の中心にいるので、ごく自然にありのままの自分という贈り物を与え、同時に人をあるがままに贈り物として受けとるのです。
許しと、そこに存在する愛を認め、ふたたび絆を取り戻そうとすれば、適切な境界線が生まれきます。
そこでは、自分の真実に照らして「ノー」のときには自由にそれが言え、自分自身の人生を生きることができるのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.162
2.絆がきれたとき、「癒着」する
今日のテーマは、昨日に続いて「癒着」です。
昨日とは、また違った角度からお伝えできればと思います。
「癒着」するのは、つながりが感じられないから
心理学においての「癒着」は、他人との心理的な距離が、近くなり過ぎている状態を指します。
ぴたっとくっついてしまうがゆえに、息苦しくもなりますし、自分がなくなってしまうように感じてしまいます。
昨日の記事では、愛しているがゆえに「癒着」してしまう、という視点をお伝えしました。
どうでもいい相手だったら、ぴたっとくっつこうとは思わないわけですから。
しかし、今日の引用文は、また少し違った視点を教えてくれます。
すなわち、絆やつながりが感じられないから、「癒着」するのだ、と。
つながっている感覚がなかったり、あるいは絆自体が存在しないように感じてしまうとき。
そうしたとき、仕方なく誰かに「癒着」する。
言ってみれば、「癒着」とは、寂しさを紛らわせる「おしゃぶり」のような、代用品なのかもしれません。
はい。ばぶぅ、です。
我ながら、思い当たる節がありありですねぇ、ほんと…
絆やつながりが見当たらないから、仕方なく「癒着」する。
そうすれば、少なくとも人と親しいような感覚がもてるからです。
けれども、昨日見たように、「癒着」は苦しく、しんどいものです。
そう考えると、なんだか切ない感じもしてきますね…
「絆」の正体とは、自分の内面とのつながり
絆やつながりを感じるのは、どんなとき?
絆やつながりが感じられないと、「癒着」してしまう。
そうだとするなら、なぜ、絆やつながりが感じられないと思ってしまうのでしょうか。
絆、つながりとは、何でしょうか。
絆やつながりとは、目に見えないものです。
いや、「キズナ」というサラブレッドはいましたが…
レジェンド・武豊騎手を背に、2013年のダービーを制した名馬でした。
どうでもいい話でした、すいません笑
私たちが、絆やつながりが切れてしまったと感じるとき。
実はそれは、外の世界の状況や、周りの人の言動は、あまり関係がありません。
大勢の中に囲まれていても、凍えるような孤独を感じてしまうこともあれば、
ソロキャンプをしていても、寂しさなど微塵も感じないときもあるでしょう。
面白いものですよね。
渋谷のスクランブル交差点にいれば、絆が感じられるのでしょうか?
毎日、SNSで「おはよう」メッセージが来れば、つながりがあるのでしょうか?
家族と暮らしている人は、みんな絆やつながりを感じているのでしょうか?
そうではないわけですよね。
飲み会でぼっちになった帰りのスクランブル交差点の寂しさは格別ですし、
どうでもいい人から100通メッセージをもらってもつながりは感じられないですし、
家族とのつながりが感じられないから「癒着」したりもするわけです。
どうやら、私たちの感じる絆やつながりは、あまり自分の外の状況や、他人の言動とは、あまり関係がないようです。
自分の内面とつながること
では、絆やつながりを感じさせるものは、何か?
外にないならば、内にあるんです。
自分自身とのつながりが切れたとき、私たちは孤独や寂しさを覚え、切り離されたと感じます。
その切り離された感覚を、外の世界に投影するわけです。
自分が、何を感じているのか。
自分は、何が大切なのか。
自分は、何が嫌なのか。
自分の内面とのつながりが切れると、そういったことが分からなくなります。
自分とのつながりが感じられないから、「癒着」する。
そして「癒着」すると、ますます本来の自分が分からなくなります。
だれかと癒着していると、自分自身の中心や、本来の自己を捨ててしまいます。
引用文にある通りですね。
絆やつながりとは、外にあるものではない。
自分の内面、言い換えると本来の自分とのつながりが、すべての根本にあるようです。
3.「癒着」の才能とは
「自分を意識する」という、「癒着」の漢方薬
「癒着」とは、絆やつながりが感じられないときに起こる。
そして、絆やつながりが感じられないときとは、自分の内面とのつながりが切れているとき。
だからこそ、昨日お伝えしたように、「癒着」を解消するには、「自分」を意識することが大切になります。
「わたしは、どう感じた?」
「わたしは、どうしたい?」
「わたしは、何が好きなの?」
「わたしは、何がきらいなの?」
「彼は彼、わたしはわたし」
これらの言葉は、「癒着」を少しずつ外してくれる、漢方薬のようなものです。
劇薬ではないので、すぐに効果が出るものではありません。
今日やったから、明日楽になるとか、そういった即効性があるものではありません。
けれど、確実に、少しずつ、効いてきます。
自分を意識する、自分の中心(センター)にいる、ということは、平たくいえば、「自分らしくいる」ということです。
「自分らしくいる」と、それ自体が、周りの人へのギフトになります。
そして、「自分らしくいる」ことを世界に投影しますから、周りの人がそのままで素晴らしく見えてきます。
自分と向き合う、自分とつながる、大きな恩恵です。
人との絆が感じられる場合は、自分の中心にいるので、ごく自然にありのままの自分という贈り物を与え、同時に人をあるがままに贈り物として受けとるのです。
引用文にある通りですね。
けれど、なかなか「自分らしさ」って、分からないですよね。
自分に似合う服を選ぶのが、難しいように。
だから、コーディネーターにファッションを相談したり、カウンセラーやコンサルタントに相談したりするのが、早いのでしょうね。
「癒着」できるという才能
さて、ここまで「癒着」の心理と、それをいかに解消していくかについて、書いてきました。
「癒着」を問題とする見方、といえるかもしれません。
しかし、すべての問題は、才能の源泉でもあります。
最後に、少し見方を変えて、「癒着」することを光の部分から見てみたいと思います。
いわば、「癒着」の才能といいましょうか。
「癒着」できる人は、どんな才能や魅力を持っていると思いますか?
…少し時間を取って、考えてみるのと、「癒着」に対する見方が少し変わると思います。
まず考えられるのは、つながり、絆をつくる才能でしょうか。
そもそも「癒着」は、つながりや絆がないと感じることから生まれます。
この、「ないと感じる」ことが、そもそも才能なんですよね。
そうした才能が無い人にとっては、「あってもなくても、どっちでもいい」くらいに感じるのでしょうから。
ということは、誰かの居場所をつくったり、孤独感を癒したり、人と人をつなげたり、そういった才能があるのでしょう。
それから、「癒着」するまで、相手のことを考えられるわけですから、人の心の機微や、感情を感じ取ることに、非常に長けているのでしょう。
ほんのわずかな、相手の変化や、心の動き。
それを、感じ取ってあげられる力があるわけです。
そうした心の機微、感情の織りなりといったものを、分かってもらえる。
それだけで、人は癒されるものです。
そのほかにも、「癒着」できる人の才能は、たくさんあると思います。
もし「私は癒着体質だなぁ」と思われる方は、少しその才能について、考えてみてはいかがでしょうか。
以上、昨日に続いて、「癒着」の心理を見てみました。
「癒着」するのは、つながりが感じられないからであり、それは自分の内面とのつながりが切れているから。
しかし「癒着」できることを、才能の面から見ることもできます。
それは、すべての問題と同じですね。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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