大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

愛しているがゆえに「癒着」もするし、「犠牲」もする。

心理学において「癒着」とは、他人との心理的な距離が、近くなり過ぎている状態を指します。

何をしていても相手のことが気になりますし、常に頭の中に相手がいる、とてもしんどい状態です。

それは辛いものですが、「それほどに愛したいから」という視点からも、見てみたいと思います。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.癒着は犠牲をつくりだす

「癒着(密着)」とは、人とのあいだの自然な境界線がわからなくなってしまった状態です。

こうした状態では、自分の中心がどこにあるのか、まったく見当がつきません。

そこでだれかがあなたの軌道に近寄ってきたとき、その人の軌道に引っぱりこまれて、あなた本来の目的や自分の人生に向かう自然な動きから、はずれてしまうのです。

 

もっとも典型的な例は、両親、伴侶、子供たちなど、あなたが生涯を通じて愛している人に対するものです。

そういう人にはあなたのすべてを与えたい、完璧に世話をしてあげたい、その人のためにすべてがうまくいくようにしてあげたいと感じます。

 

私たちはひたすら助けて、助けつづけるのですが、結果は何ひとつ変わらないように見えます。

それは自分を捨てて相手の犠牲になっているので、どちらも前に進めないのです。

つまち私たちは、偽りのヘルパーになってしまうのです。

「共依存」という悪循環のなかでは、ただ息がつける空間がほしいばかりに、相手と何千マイルもはなれなければならないと、と感じたりするのです。

親と癒着していると、あなたがどれほど親を愛していたとしても、たぶん遠くにはなれる必要性を感じることでしょう。

本当にまわりの人を助けるということは、あなたが自分の人生を生きることによってしかできないのです。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.162

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2.「癒着」の心理

今日のテーマは、「癒着」です。

引用文に出てくる「犠牲」については、以前にこちらの記事を書いておりますので、ぜひご参照ください。

「祝福は、犠牲の解毒剤」

「犠牲」から刺激物を求める心理と、罪悪感の関係について。

ぴたっとくっついたまま、「癒着」の心理

「癒着」とは、字面からすると、なんだかワルいイメージがありますよね。

下請け企業と癒着する、政治家と癒着する…などといった、「癒着」が使用される場面から、そう思うのかもしれません。

心理学においての「癒着」は、他人との心理的な距離が、近くなり過ぎている状態を指します

引用文にもある通りですね。

「癒着(密着)」とは、人とのあいだの自然な境界線がわからなくなってしまった状態です。

誰にでも「癒着」するというわけではなく、多くの場合は、母親、父親、パートナー、子どもといった、近しい関係において起こります。

心理的にぴたりとくっついてしまうわけですから、何をしていても、相手のことが気になりますし、常に頭の中に相手がいる状態になります。

この状態になると特徴的なのが、主語がはっきりとしなくなる、ということがあります。

「昨日、遅くまで飲んでたんだよねー午前様だったよ」
「ふーんそうなんだ。そりゃあ、疲れたでしょ?」
「そうだと思うよ。めっちゃダルそうに、朝ごはんも食べずに出勤してったもん」
「え?自分の話じゃなかったの?」
「え?旦那の話だけど?」

 

「もう、いっつも忘れ物ばっかり。気をつければいいんだけど、減らないんだよね」
「それは困るよね。老化には勝てないよね」
「いやぁ、さすがに10歳で老化はないと思うけど…」
「え?自分のことじゃなかったの?」
「え?娘のことだけど?」

 

…などなど、「癒着」の傾向があると、自分と相手の境界線があいまいになるため、主語がよく分からなくなります。

相手とぴたっとくっついてしまうから、自分の考え、自分の価値観といったものが、分からなくなる。

相手の気持ち、感情、考え方をいつも気にしているわけですから、自分の気持ちなどは、見えづらくなるのは、当たり前ですよね。

それは、24時間、寝ても覚めても、常にいっしょにいるような状態です。

常にいっしょ、トイレのときも、お風呂のときもいっしょ。

たとえ好きな相手であっても、それはさすがにしんどいのではないでしょうか。

心理的には、そんな状態を指します。

「癒着」と「執着」の違い

何かにぴたっとくっついてしまう心理に、「執着」があります。

「癒着」と「執着」の違いは、「ふたりでするか」、「ひとりでするか」の違いになります。

けっして、下ネタではありません笑

「執着」の場合は、相手は関係なく、自分の心だけが対象になります

そのため、別れて連絡を取っていない彼女に「執着」することがありますし、お金や仕事といった、人間以外の対象に「執着」することもあります。

いわば、相手に関係なく、自分一人で一方的にすることができるのが、「執着」です。

「執着」していると、選択肢がないことがしんどくなります。

別れた彼女よりも、素敵な女性なんていない。

そう感じてしまうと、非常にしんどいのは、ご想像の通りです。

一方、「癒着」の方は、自分と対象となる人の両方が、心理的な距離を縮めるがゆえに起こります。

運動会の二人三脚は片足だけ縛って走りますが、「癒着」は相手と自分を心理的に縛ってしまうような状態です。

これは、物理的な距離とは関係がありません。

たとえば遠く離れて実家で暮らすお母さんと、心理的に「癒着」していることは、珍しいことではありません。

すべての行動に相手がついてくる、自由がない状態。

誰かと「癒着」していると、とても息苦しさを感じるとともに、パーソナルスペースが全くないように感じます。

「執着」の選択肢が無い状態とは、また違った意味でのしんどさがあります。

3.「癒着」するほどに、愛したかったから

愛しているがゆえに「癒着」するし、「犠牲」もする

さて、こうした「癒着」した状態になると、往々にして相手に対して「犠牲」的な行為をしがちです。

「犠牲」とは、相手のために、自分が幸せでない行動を取ることを指します。

周りから見れば、その行動は素晴らしい行動かもしれません。

けれども、やっている本人からすると、満足感も充実感もなく、幸せを感じられないのが、「犠牲」の特徴です。

しかし、なぜそんなにも、文字通り「犠牲」にしてまで、自分を捧げるのでしょうか。

引用文のここに、注目したいと思います。

もっとも典型的な例は、両親、伴侶、子供たちなど、あなたが生涯を通じて愛している人に対するものです。

そういう人にはあなたのすべてを与えたい、完璧に世話をしてあげたい、その人のためにすべてがうまくいくようにしてあげたいと感じます。

「生涯をかけて、愛したい人」。

そうなんです。

愛しているがゆえに、「癒着」もするし、「犠牲」してまで与えようとするんです

そもそも、どうでもいい人に「癒着」したりは、しないわけです。

愛しているからこそ、その人と心理的な距離が縮まる。

「癒着」も「犠牲」もしんどいものですが、そのしんどさにフォーカスすると、この単純な事実を忘れてしまいがちです。

愛しているからこそ。

「癒着」や「犠牲」をしていることに気づいたら、まずはその「愛している」ことに立ち返ってみることが、大切だと私は思います。

自分を生きることが、相手を幸せにする

「癒着」を解消するのには、時間がかかることが少なくありません。

接着剤でくっついてしまったものを、いきなりベリベリとはがそうとすると、痛いですもんね笑

ゆっくり、ゆっくり、ぺりぺり、くらいで進めていくので、いいんだと思います。

そのぺりぺりとはがすためのアプローチとしては、「自分の気持ち」「自分の意思」が重要になってきます。

そもそも「癒着」とは、相手の感情や思考に、ぴったりとくっついてしまうわけです。

そのため、「自分自身の気持ち、意思」を取り戻していくことが必要になります。

「自分はどうしたいんだろう」
「私はどう感じたんだろう」
「自分は何をしたいんだろう」

などなど、自分自身に対して問いかける癖が、非常に有効です。

これは、「私は私、あなたはあなた」という、自分と相手との間の境界線を引くことでもあります。

「癒着」していた分、少し距離が空くと、とても強い寂しさを感じることもあります。

いきなりやろうとすると、その寂しさから、またくっつきたくなったりします。

ですから、少しずつ、少しずつが、いいんですよね。

 

そして、その距離を置いた先で、「自分のしたいこと」「自分の幸せ」を考えてみるわけです。

「相手を、置いてけぼりにしてしまうようだ」
「なんだか、一人だけだと寂しい」
「自分だけ、そんなことを考えていいのだろうか」

などなど、いろんな想いが出てくるかもしれません。

しかし、今日の引用文にある通りです。

本当にまわりの人を助けるということは、あなたが自分の人生を生きることによってしかできないのです。

誰かを助けるということは、その人のために生きることでも、犠牲になることでもありません。

それは、結局のところ、共倒れになるだけです。

そうではなくて、自分の人生を生きること。

自分が、まず幸せになること。

それが、周りの人を助け、周りの人を幸せにするためにできる、唯一のことだと思うのです。

他人の気持ちを察することができる人ほど、誰かのために生きようとしてしまうのですけれどね。

 

今日は、「癒着」という少し重めのテーマでした。

しかし、その根底には「それだけ愛したい」という想いがあると思うのです。

少しでも、そこに目を向けていただけると、嬉しく思います。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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