周りからの好意や愛を受けとれないとき、私たちは罪悪感を感じます。
その「受けとれないことの罪」よりも、「それでも愛されている」ことに、フォーカスしたいものです。
1.それでも自分を責めることはない
先日の記事では、罪悪感と自分責め、というテーマでお伝えしました。
たとえ差し伸べられた手を払いのけたとしても、自分を責めるにはあたらない。 - 大嵜直人のブログ
「自立」の心理と「罪悪感」は、切っても切れない関係です。
反対に、「依存」は「無力感」となかよしです。
いや、別になかよしする必要もないのですけれども笑
「自立」は、なんでも自分でやろうとするがゆえに、受けとることが苦手です。
周りからの行為であったり、神さまからの愛であったり、思いもよらない幸運だったり…
「いえ、自分でするんで、結構です」とばかりに、受け取り拒否をしてしまう。
そして、受けとれないだけならまだしも、その与えてくれた相手に攻撃的な態度を取ってしまったりもします。
せっかく自分に手を差し伸べてくれた相手に、ひどい態度を取ってしまう。
「あなたに私の何がわかるの?」とか、「そんなこといって、結局見捨てるんでしょう?」とか。
先日の記事では「味方討ち」と表現しましたが、罪悪感をたんまり抱くには、十分すぎますよね。
ただ、それでも自分という存在は、責めるにはあたらない、というのが昨日のテーマでした。
2.自分に一番厳しいのは、自分自身
よく言われる話ですが、世界中のなかで、自分に一番厳しいのは、自分自身です。
最も自分を責めているのも、自分自身です。
罪悪感もまた、同じです。
自分を最も悪い人間、罪深い人間、罰せられるべき人間だと思っているのは、自分自身に他なりません。
自分を責めたくなったとき。
罰したくなったとき。
そのことを、思い出したいものです。
どんな状況であっても、どんなできごとがあっても。
たとえ、先ほど述べたような、「味方討ち」をしてしまったりしたとしても。
自分を責めるには、あたりません。
それをして喜ぶのは、自分のなかの鬼軍曹だけです笑
3.それでも、与えられるし愛される
「味方討ち」をしてしまうほどに、傷ついていたのかもしれません。
孤独だったのかもしれません。
けれども、その差し伸べた手を、振り払ってしまったことよりも、その与えられた愛のほうに、目を向けたいものです。
あなたがどんなに、自分をひどい人だと思っていても。
どんなに、罪深い人だと感じていても。
どれほど、罰せられるべきだと思っていても。
それでも、あなたは世界から与えられるし、愛されるのです。
もしかしたら、あなたが受けとろうとも、受けとらなくても、それは些細なことなのかもしれません。
だって、そういうものじゃないですか、愛するって。
愛せるだけ、想うことができるだけ、しあわせ。
そう感じることができるのが、愛なのでしょう。
あなたには、そう想われるだけの価値があるのです。
そう思っていないのは、あなた自身だけだったりするんです。
それでも、あなたは与えられるし、愛される。
それは、明日も日が昇るように、自然なことなんです。
今日は、それでも、あなたは愛される、というテーマにしてお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
〇大嵜直人のカウンセリングの詳細・お申込みはこちらからどうぞ。
※ただいま5月度の個人カウンセリングを募集中となります。
〇カウンセリングのご感想のまとめはこちら。