大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

頑張りすぎるときの心理と、その裏側にある視点。

一人で頑張り過ぎて、しんどくなってしまうとき。

そんなときの心理と、大切にしたい一つの視点をお伝えします。

頑張っているのに、充実感を感じられないとき

今日のテーマは、「頑張らなくてもいい」という言葉をお伝えしたいわけではありません。

頑張るべきときや、踏ん張らないといけない場所というのは、生きていく中で確かに存在します。

あまり「べき・ねば」という考えをすることは好ましくないのかもしれませんが、それでも、そういった時期というのはあります。

そして、何かのために努力したり、頑張ったりできることは、とても大切なことです。

負荷をかけることで、器が大きくなるのは、筋トレも同じですよね。

今日のテーマは、そういったことを否定するものではありません。

ただ、
「頑張れば頑張るほどに、虚しさを感じる」
「頑張らないといけないのが重圧で、苦しい」
「なぜ自分だけが、こんなにしないといけないのだろう」
…などと感じることが、時にはあるかと思います。

仕事の上でも、パートナーシップでも、あるいは家庭のなかでも。

頑張っているはずなのに、充実感を感じられない。

そんなときに、参考にしていただければと思います。

誰も手伝えなくすることで、感じたいものとは

その頑張りを否定する必要は、全く無い

先に書いたような不満やストレスを感じるとき。

そんなときは、一人で抱え込んでしまう、という共通点があります。

これは、私の長年の悪しき習慣、慢性的な問題でもあります笑

表面的な意識としては、「なんで私だけ?誰も助けてくれない!」と不満や怒りを感じます。

しかし、周りの人からしたら、「大嵜さんは全部自分でやって、助けさせてくれない」と感じていたりするものです。

はい、冷静に考えると、とっても悲しい、誰も幸せにならない状況ですよね泣

あなたが頑張ることをはじめたのは、自分のためかもしれません。

あるいは、もしかしたら誰かのためかもしれません。

けれども、その頑張りがいつの間にか、自分だけでなく、周りの人も苦しめてしまうことになってしまっているとしたら。

とても、悲しいことですよね。

だからといって、その頑張ってきた自分自身を責める必要は、全然ないと思います。

その始まりには、自分を高めることだったり、誰かを想うことだったり、何がしかのポジティブな想いがあったと思います。

その前提の上で。

いつしかその頑張りが、すれ違ってしまうとしたら。

その頑張りには、何らかのネガティブな感情が貼り付いてしまったのかもしれません。

貼り付いているネガティブな感情

私の場合は、「寂しさ」でした。

「寂しさ」とは、イヤなものです。

できればご遠慮願いたいし、感じたくないし、あまり見たくないものです。

「寂しいから、一緒にいてよ」

そう素直に言えるならば、いいんです。

「寂しさ」とは、イヤな感情ですが、誰にでもあるものですから。

けれども、その感情があまりにも辛く、感じることが難しかったり、あるいは感情自体がなかったことにしてしまうことがあります。

けれども、「寂しい」という感情を遠ざけても、その感情自体がなくなるわけではありません。

むしろ、感情を感じないことは、とてもしんどいことです。

そのため私たちは、「寂しい」と感じられる状況を自分でつくってしまうことがあります。

もちろん、好き好んでやっているわけではなく、無意識に、ですけれどね。

頑張っても頑張っても、結局のところ、誰にも気づかれない。

誰にも評価されない。

誰にも見向きもされない。

そういった状況で、ようやく自分の奥底で暴れている「寂しい」という感情に目を向けることができるといえます。

「寂しい」という一言が言えないことから、ずいぶんと遠回りしてしまうものですよね。

私もハードワークをしていたときには、「寂しい」という自分の感情を抑圧していました。

そんなことを言ってはいけないし、寂しいってなに?と思っていたりしました笑

けれども、寂しかったんですよね。ずいぶんと。

そこまでして、周りの人を想っていたんですよね

気づき方は、人それぞれ

自分ひとりで頑張りすぎてしまうとき。

その頑張りには、いろんな感情が貼り付いていたりします。

私の場合は、「寂しさ」でした。

そこに気づくことができると、無理に頑張ることを少しずつやめていくことができます。

けれども、それはそれで難しいことでもあります。

だって、感じたくなくて隠してきたものを、いきなり「さあ、オープンにしましょう!」といわれても、難しいですよね。

私も、自分が「寂しい」と感じているなんて、絶対に認めたくなかったですし笑

そこの気づきは、人それぞれでいいんだと思います。

ピコーンと気付く人もいれば、じんわりと「あぁ、寂しいんだなぁ」と時間をかけて気づく人もいる。

そこに、優劣も正解もありません。

その人のパーソナリティーや、人となりが出てきます。

けれども、必ず言えることが、一つあります。

それは、「頑張ってきた自分を受け入れること」です。

なぜ、そこまで頑張れたんでしょうか?

私たちは、Aをいままでやってきて、Bというやり方があると知った時に、Aを否定するということをよくします。

「Aはダメだから、Bにしよう」、といったように。

それはある意味で自然な心の動きなのかもしれませんが、自分のことに当てはめるのは、少し考えものです。

頑張りすぎたとしても、しんどくなるまで頑張ってきたとしても。

そのこと自体は、否定しなくてもいいと思うのです。

いえ、むしろ、自分がしんどくなるまで、苦しくなるまで、頑張ってきたのは、なぜなんでしょう。

人は、自分だけのためだったら、そこまでできないはずなんです。

誰かのために、周りの人のために、大切な人のために、だからこそ頑張ろうとするものです。

そこまでして頑張ってきたことは、間違ってきたことでしょうか。

私は、そうは思いません。

むしろ、そこまで頑張れたことは、とても美しいと思います。

頑張り過ぎて感じたしんどさや辛さは、人としての尊さの裏返しでもあると思うのです。

だから、決して頑張り過ぎたことを、否定しないでいてほしいのです。

「寂しかったよね」

「よく我慢したよね」

「よく頑張ってきたよね」

そんな言葉を、自分自身にかけて、ねぎらってあげることが大切なのではないかな、と思うのです。

そんな視点を、私は大切にしたいと思っています。

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