冷たい秋雨が地面を濡らしていますね。
雨が冷たいと感じると、秋が深まってくるのを感じますね。
・・・左様でございますか、今日はその習いごとのお稽古の帰りですか。それは雨の中、大変でしたね。それでも、いくつになっても学べるというのは、ありがたいことです。
さて今日はそんな学ぶことについてのテーマをご用意いたします。
快晴の週末に。
飛散する花粉に目をこすりながら、息子と娘と公園へ出発。
慣れない補助輪付きの自転車に二人とも苦戦し、娘が早々に飽きて脱落。肩車して自転車を引きながら公園に向うも、息子もまたなかなか進まない。
とうとう道半ばで息子も終戦。
小さな坂道が越えられず、癇癪を起こし自転車から降り、
もうここからうごかない!
と座り込んでしまう。
お、それは困ったな。
じゃあおとうも座ろうっと。
普段歩いている道に、三人で座る。
初夏のような陽射しに温められたアスファルトは心地よく、眠気を誘う。
いつもと目線が変わると、アスファルトを割って咲くオレンジ色の花に紋白蝶が舞っているのが目に入る。
結局、目的の公園には行かず2台の自転車を引いて帰ることになったが、美しい春を感じる散歩になった。
首長竜、トリケラトプス、路傍の花。
小さな師匠たちはいつもいろいろ教えてくれる。
2017.4.24
首長竜とトリケラトプスの言の葉は、こちらですね。
私にいろいろと教えてくれる息子=小さな先生ですが、ずいぶんとその教えに触れられるようになるまでに、やはり時間はかかりました。それこそ、マリアナ海溝へ潜る前は、彼らをコントロールしようと躍起になっていました。
お出かけをするにしても何にしても、大人の私を基準として考え、スケジュールを立てて、「大人の私が喜ぶであろうと考えること」を押し付け、感情の強要をして、そしてもちろん彼らは思い通りにならず、常にイライラしていました。
当然ですよね。
そして、ものごとが思い通りにならず、それに対して感情的に怒ってしまうたび、後から絶望的に後悔して、親としての自信を無くしていきました。
しかし、いつからか自分の心と向き合っていくうちに、近しい関係の人は自分の鏡である、ということを実感していきました。怒りを溜め込んでいれば、代わりに彼らが起こってくれますし、悲しみを溜め込んでいれば、代わりに彼らが悲しいそぶりを見せてくれますし、無理して我慢を重ねていると、彼らはそんな私の代わりに我慢を吹き飛ばような自由な行動を取ります。
自らの心の余白の部分を取り戻していくと同時に、私は彼らを信頼し、彼らから多くのことを学ぶことができるようになりました。ほんの少し家の周りを散歩しても、彼らの目に映る世界は驚きと感動に満ち溢れているのですね。
あじさいがさいているよ!
あ!ネコちゃんだ!
なんでてっとうはあんなにたかいの?
みてみて!アリさんがいっぱいいる!
生まれて世界を初めて見るかのごとく、そのままの世界を見ることを彼らは自然に教えてくれるのです。そんな瑞々しい感性で世界を見つめること。37歳の私にとって今日という一日は今まで生きてきた365日×37年≒13,500分の1の重みですが、5歳の彼らにとっては365日×5年≒1,800分の1の重みなのかもしれません。
教える立場の方が、実は最も教えられている。
小さな先生を前にすると、そんな言葉が思い出されます。
さて、お客さまの周りの先生はどなたでしょうか。
実は思いもよらない方こそが、お客さまにとって大切なことを教えてくれる先生なのかもしれません。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。