いらっしゃいませ、ようこそお越しくださいました。
ここ二日間、私たちの抱える「問題」について綴ってきました。
今日は私が最終的な「問題」の解決だと思う、「問題が解決しなかったいいのに」という境地に至るプロセスを綴ってみたいと思います。
「問題」はそれを「問題」として捉える視点では、望むような解決はできない。
よしんば解決したように見えて、時間が経てば形を変えては私たちの前に現れる。
そうしないためには、「問題」を誰かの手に委ねないこと。
それはすなわち、「問題」を語るときに「主語」を変える、ということ。
「彼女が」「息子が」「会社が」「お金が」「時代が」「相手が」
その「主語」を使った言葉を使っているときは、私たちは「問題」の解決を自分ではない「誰か他の何か」に任せてしまっている。
その状態は「誰か他の何か」の動きに翻弄され、監視しなければならず、被害者意識から抜け出せず、思考は堂々巡りになる。
そうではなくて「私が」という「主語」を使い始めると、状況は確実に変わっていく。
それは一朝一夕に変わるものではない。
魔法の杖が存在するようなことはなく、一滴一滴の雪解け水が大きな流れとなって春を呼ぶように、僅か1度の面舵が長い航海の先では大きく目的地を変えるように、徐々に徐々に時間がかかる変化だ。
それでも、確実に変わる。
「私が」という「主語」を使い始めると、「問題」を主体的に捉えだす。
この問題は、なぜ私に起こったのだろう。
私はなぜこの問題を必要としたのだろう。
この問題から学べることは何だろう。
この問題が恩恵に変わるとしたら、どんな形になるだろう。
そう主体的に考え出した時点で、すでに「問題」は形を変え始めている。
人が想像することは、すべて実現するからだ。
しかし、そう考えることの障害がある。
ネガティブな感情だ。
どうしたって、「問題」にくっついて来るネガティブな感情を直視することを、人は避けてしまう。
怒り、憎しみ、嫉妬、罪悪感、無力感、悲しみ、寂しさ、怖れ・・・
「問題」にくっついて来るさまざまなネガティブな感情は、まるでパンドラの匣を開けたように、今まで感じたことのない心の揺れをもたらすかもしれない。
しかし、ここでも翻って主体的に考えてみることが大切だ。
こうしたネガティブな感情とは、「問題」が「私に」与えてくれたギフトや恩恵だとしたら。
ネガティブな感情は、恩恵だ。
怒りという感情を感じることで、人はエネルギッシュで行動的になれる。
悲しみという感情を感じることで、人はより大きな喜びを感じることができる。
不安という感情を感じることで、人は周りへの心遣いをできるようになる。
寂しさという感情を感じることで、人はより深いつながりを感じられるようになる。
誰しもがネガティブな感情を感じることはイヤなものだが、それを感じ尽くすことで得られる恩恵はあまりに大きい。
今まで怖くて抑えつけていた感情を解放するために、「問題」は起こると言い換えられるのかもしれない。
「私が」抑えつけていたネガティブな感情。
それを感じることによって、「私には」どんな恩恵があるのだろう。
安心できる場所でそのネガティブな感情を吐き出した後で、そう考えてみることは「問題」を捉える上で大きな契機になる。
そうしていったときに、私たちは見つける。
「問題」が教えてくれる自らの「才能=gift」のかけらを。
それが見えたのならば、後はそのばらばらになっていたかけらを集めていくだけだ。
それは今の自分では問題が解決できないから変わりたい、という自己否定ではない。
ただ、本来の自分に還っていくだけなのだ。
「問題」を解決する鍵は、必ずその人の「才能=gift」にある。
それが分かると、「問題」は自分の「才能」を余すことなく映し出してくれる鏡であり、それが解決しなかったらいいのに、という逆説的な心境にもなり得る。
それは、まるで「ドラゴンクエスト」のようなゲームをしていると覚える、「このまま冒険の旅がずっと終わらなかったらいいのに」という感覚に似ているのかもしれない。
薬草が足りなかったり、
仲間を探したり、
なかなか強力な中ボスに苦戦したり、
新しい呪文を覚えたり、
そんなことを重ねているときが、実は一番楽しい時間なのかもしれない。
同じように、もし人生がゲームだとしたら。
いろんな「問題」を抱えている人は、このゲームを余すことなく楽しむために、いろんなストーリーを楽しめる設定をして生まれてきたのかもしれない。
そんな境地に行くことが、一つの「問題解決」のひな形のように私は思うのだ。
昨日一昨日に続けて「問題」について綴ってみましたが、いかがでしたでしょうか。
少しでも「問題」を違った角度から見る手助けになれば幸いです。
今日は夏至ですね。
これから梅雨が明けて暑い夏がやってくるのに、太陽と月、星の動きは冬に向かっていく。
不思議なものです。
私たちの身の周りにしても、たとえ目の前の状況は変わっていなかったとしても、目に見えないところではもうすでに変化の準備が整っているのかもしれませんね。
今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。