昨日の記事が多くの方に目を通して頂いたようで、嬉しい。
今日はその続きを。
深い絶望の裏は、偉大なる才能。
問題や悩み、心の傷、劣等コンプレックスといったものの裏側には、それを経験した人しか持ち得ない才能が眠っている。
それはオセロの石のようなもので、必ず裏返すことができると書いた。
それは、間違いなく一つの真実だ。
よく見かけるのだが、「有限な人生の時間、悩む時間はムダだ」という意見がある。
それも、一つの真実だ。
けれどその有限な時間の中で、なぜ悩むのか、自分の心は分かっている。
それこそが、自分の才能を示すコンパスなのだから。
悩みがあることは、恥でも弱さでも無駄な時間でもない。
意識的にせよ、無意識的にせよ、有限なる人生の時間を使って「悩むことを選んでいる」と言えるのだから、それは貴重な時間なのだ。
その悩みの内容について、他人がどうこう評価するものでもない。
自分にとって大切なものだから、悩む。
ただ、それだけだ。
眼を閉じても思考がぐるぐる回り、どうやってもあのことが頭を離れず、朝までの時間が永遠に思えるときもある。
どうしようもなく孤独で、膝をかかえて迎える朝もある。
分かっていながら、吐くまで飲んでしまう夜もある。
身体の傷とちがって、心の傷は分かりにくい。
深い傷を心が負っても、青あざになったり、ドクドクと血が流れたりはしない。
けれども、身体と同じように心も傷つくのだ。
本人が気づかないこともあるだろうし、深すぎる傷のために心が痛みを感じることに蓋をしてしまうこともある。
実際に、私が21歳のときに父親と、22歳のときに母親と突然の別離を経験してから、ずっと寂しさに蓋をしてきた。
涙を流したことは、数えるほどしかなかった。
仕事もしてきたし、人間関係を閉じることもなかった。
それでも、抑え込んだ寂しさに潰されて、心は死んでいた。
15年前から、時を止めていたとも言えるのかもしれない。
その寂しさに気づくのに、15年もかかってしまった。
それが長いのか、短いのか、私には分からない。
けれど一つ言えるとすれば、絶望の黒い石がパタパタとひっくり返るときは、必ず訪れる。
私に、15年分の涙を流した夜が訪れたように、時間がかかろうとも、必ず。
そこでパタパタと石が裏返ったとき、人は何を見るのか。
裏側に刻まれた光輝く「才能」を見る。
今まで絶望していたその黒い石の裏側に、光り輝く「才能」を見つける。
けれども、ふとその裏返った石を見ていると、本当は色などなかったことに気づく。
「才能」も、「絶望」も、同じ自分の側面でしかない。
それに「白」と「黒」の色付けをしていたのは、私自身でしかなかったことに気づく。
ほんとうは、私の石に「白」も「黒」も「いい」も「悪い」もない。
それにいろんな価値観を貼りつけて、悲しんだり喜んだりしているのは私自身でしかない。
それは、そこに在るだけ。
ただ、「そこに在るだけ」なのだ。
「絶望」も「才能」も、私自身の愛しい大切な一部に過ぎない。
「白」と「黒」のオセロがひっくり返ったあと、人はそんな風景を見る。
いまは「黒」としか思えなくても、大丈夫。
きっとそこには色などなく、自分の大切な一部として愛せる時がくる。
それは毎年変わらず季節がめぐるくらいに、確かなことなんだ。