人には大なり小なりコンプレックスがある。
ここでいう「コンプレックス」とは、他人と比較して劣っているという「劣等感コンプレックス」を指す。
それは他人と比較して、
外見や容姿といったものであったり、
引っ込み思案や人見知りといった性格的なものであったり、
学歴や職歴といったものだったり、
身体の大きさや形といった身体的なものだったり、
家族構成や家庭環境、友人関係といった環境的なものであったり、
さまざまなことにつけて、人はコンプレックスを持つことがある。
そして、そのコンプレックスの程度もさまざまではあるが、その深さを測る一つの指標がある。
他人に話すことができるかどうか、というものである。
人に話すことのできるコンプレックスは、自分がそれを受け入れて許すことができている。
例えば私は車の運転が(人よりも少しだけ)下手で、方向感覚も(人よりも少しだけ)鈍いのでナビ神がいないと迷子になる。
まあ30歳までペーパードライバーだったということもあるが、「男性なら、運転できて地図が読める」と思い込んでいた自分は、コンプレックスだった。
それが、まあこうやって不特定多数の人が読む場でネタにすることができるくらいには、そのコンプレックスを許すことができている。
人に話すことができるコンプレックスは、自分がそれを受け入れて、許すことができているから、話すことができるのだ。
受け入れ、許すことができると、コンプレックスは「劣等感」から「個性」に昇華する。
地図が読めないのも、大事な「私」の一部、というように。
例えば、思春期特有の身体的なコンプレックス(背が小さい、足が太い、毛深い・・・)は、時間とともに気になる度合いが少なくなることが多い。
私でいえば、中学高校の頃はクセ毛がすごくコンプレックスで、天然パーマとからかわれたりした。
どうやったら周りの皆のようなサラサラでストレートな髪になるのか、いつも悩んではドライヤーと整髪料と相談していた。
それが不惑も近くなってみればクセ毛もいいもんだし、ストレートにしたかったらパーマ当てることもできるしな、くらいに緩んでいる。
さて、以前にも書いた記憶があるが、心の中では原因と結果があいまいだ。
先に挙げたようなコンプレックス(運転下手、地図読めない、天パ)を、私は受け入れて許せている。
だから、人に話せたり、ここに書くことができたりする。
その見方は、たしかに正しい。
そして実は、それと同時に逆もまた真なのだ。
人に話せたり、あるいは表現することで、
コンプレックスを癒し、受け入れ、緩め、許すことができる。
これもまた真実の一つだ。
もしも周りに話を聞いてくれる人がいたら、話してみると、コンプレックスもまた癒えるのだろう。
それは、とても勇気の要ることだと思う。
今まで、ずっと隠して消そうとしてきた傷口を晒すようなものだから。
それでも、それは価値のあるチャレンジだと思う。
話すことで、コンプレックスは許され、癒される。
さて、ここまでコンプレックスの受け入れ方と癒し方について触れてみた。
では、なぜ人はコンプレックスを持つのだろう。
コンプレックスが持つ意味とは、何だろう。
それは、本来その人が持っている魅力や才能の裏返しなのだ。
昨日、一昨日と絶望と才能についての記事を書いてみた。
それと似たようなもので、その人が本来持つ魅力や才能というのは、受け入れることが難しいものだ。
それは、小さいときからすでに「人と違う」面を見せているものだから。
悲しいかな、日本の社会では同調圧力が強いため、そうした「人と違う」面を持つことは、魔女狩りやいじめの対象になりやすい。
お前のそれは、みんなと違うから、おかしいよ。
そうした圧力に傷ついた人は、その天から授かった才能や魅力を他人に見せないように、どうやって隠すのかに必死になってしまう。
それこそが、コンプレックスと呼ばれるものの本質だ。
コンプレックスとは、その人だけが与えらえた天賦の才能や、多くの人を引き寄せる魅力の呼び名の一つなのだ。
才能豊かなゆえに、人は傷つく。
それでも、与えられた才能は、輝きを失うことはない。
どれだけコンプレックスだと感じて周りに見せないようにしていても、その魅力の輝きを抑えることはできない。
どれだけ隠そうとしても、その才能を発揮せざるを得ない場面が目の前に現れる。
そのとき、今まで隠して憎んで嫌ってコンプレックスと思っていたその才能は、美しい輝きを放ち始める。
どうやって隠そうか、見つからないようにしようかと思って悩んだ時間は、その裏側にある才能を磨いている時間だったのだ。
コンプレックスは、天から与えらえた魅力と才能なのだ。