かつて、アンリ・マティスは、教え子にデッサンの講義をする際に、こんな風に伝えたと聞いた。
「人がメロンのことを話すとき『こんなに大きなメロンがあってね!』と空中に両腕で丸い線を描いてみせる。
そこに二つの線が、同時に現れる。
それらの線が囲む丸い空間が、話している人の前に現れる。
それがデッサンだ。
一本の腕を使ってそんなふうにデッサンせよ」
前田英樹著
「絵画の二十世紀 ~マチスからジャコメッティまで」(NHK出版)
多彩な色遣いが特徴的な絵画を描いたマティスが語る、デッサンについての言は興味深い。
未分化で連続した世界、あるいは真っ白なキャンバスから、「それ」を切り取る線。
それこそが、デッサンだと。
その線とは、マティスのその言を借りるならば、「こんなに大きいメロンが!」という感動であり、心の機微である。
それを伝えようとする力が、両の腕をそのメロンの輪郭を形作り、世界を切り取る。
言うなれば、メロンを描きながら、それはメロンのみにあらず。
「そうであること」への感動と驚きに満ちた世界が、そこには見える。
心が動いたこと、それのみが世界を形作っている。
それは、機械仕掛けののっぺりとしたものではなく、どろっとして、いびつで、不連続で、なまなましい姿をしている。
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ここでマティスが語るところのデッサンを、「コミュニケーション」としてみることもできよう。
そのメロンを両の腕で描き出した誰かは、「大きなメロンがあった」ということを伝えたかった。
それ以上でも、それ以下でもない。
「こーんなにも、大きなメロンがあったよ!」
それだけである。
ただ、それを伝えるために、身振り手振りを使って、それを相手に伝えようとする。
そこに、コミュニケーションの原型がある。
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人は、いつから言葉を交わし始めたのだろう。
「あそこにマンモスの群れがいたぞ」
「その色の果実は酸っぱくて食べれない」
「明日は雨が降りそうだ」
そんなことを、伝達し始めたのが、始まりなのだろうか。
もしそうだとするなら、情報を伝達することが目的だったのかもしれない。
コミュニケーションとは、情報、すなわち意味の交換ともいえる。
もしそれがコミュニケーションの唯一の目的なのであれば、相手に正確に伝えることが至上命題となる。
その正確性を担保するためには、その意味の確認、その確認の確認、その確認の確認の確認…というループが、無限に続いていく。
自分が発した意味と、相手が理解した意味の相違を確認するために、また新たな意味を発しないといけない。
どうやら、コミュニケーションの持つ意味にこだわり過ぎると、私たちはどうにも窮屈になるようだ。
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意味なんてなくてもいい。
伝える意味などなくても、伝える。
何でもないことを、伝える。
ただ、そんな単純なことなのかもしれない。
それでいいのかもしれない。
ただ、伝える。
もちろん、それをするためには、伝えたい何がしかがあることが前提である。
そのためには、メロンの大きさに素直に感動できる、心の柔らかさが要るのではあるが。
空飛ぶ絨毯の上に仙人が乗っているような。