たとえば、ふとした風景に故郷を思い出すことがある。
私は生まれた土地に、川という名がついた大きな池があり、その周りぐるっと囲む公園があった。
幼い頃、そこによく連れて行ってもらったこともあるのだろう。
その公園の松並木の雰囲気を、よく覚えている。
そして、その雰囲気によく似た松並木の風景を通ると、どこか、故郷を思い出す。
それは、松並木に限らないのかもしれない。
地方都市の故郷の、何でもない街の風景。
それは、ビルの高さや、工場の壁面、あるいは接骨院の看板かもしれないが、そんなものが織りなす雰囲気があって。
ときに、初めて訪れる街を歩くときに、その雰囲気に似たものを感じることがある。
見知らぬ街に。
あるはずもない、故郷を想う。
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たとえば、ふと肌に触れる気温の変化に、故郷を思い出すことがある。
私の生まれた故郷の近くに、伊吹山という山があった。
冬の晴れた日などは、白い傘を被ったその伊吹山が、よく見えた。
けれど、冬になるとその伊吹山からは、ものすごく冷たいからっ風が、いつも吹いていた。
それを「伊吹おろし」と、地元の年配者は呼んでいた。
なぜか手袋をよく無くす私は、通学路で、その冷たい風に、いつもかじかむ手をすり合わせていた。
冬の晴れた空の下、冷たい風が吹く。
時に、その冷たさに、私は故郷を想う。
いま、そこにありもしない、ふるさとを。
もう、戻れないふるさとを想う。
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たとえば、ふと耳にしたメロディに、ふるさとを想うことがある。
兎追いし かの山
小鮒釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷
その「ふるさと」を想うとき、それは自分の故郷ではない「ふるさと」を想っている。
青々とした稲が広がる田んぼの中、あぜ道が続いて。
その脇には小川が流れていて、見ればメダカが泳ぎ、タニシが歩き。
遥か彼方の山々には、カラスが飛んでいく。
茅葺き屋根の家の縁台には、わるそうなねこが丸まっていて。
そんな観念的な「ふるさと」など、もうどこにもなくなっているはずなのに。
どこか、日本人のアイデンティティのような「ふるさと像」が、ある。
それは、どこにもないけれど、どこにも在る。
こころざしをはたして いつの日にか帰らん
山はあおき故郷 水は清き故郷
いつか、そこに帰る日まで。
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時に、ふるさと。
それは、地名の響きとともに思い出されるものかもしれない。
けれど、地名は記号でしかなくて。
どこか、空気の冷たさ、松並木、あるいは看板の灯り。
そんなものの中に、ふるさとは生きている。
それは、ふとした刹那に。
私たちを導いてくれる。
いつの日か、土に還るまで。