自分を傷つけることができるのは、自分しかいません。
この単純なテーマを、少し深堀してみたいと思います。
どこからお話しても、やはり最後は自分を責めることをやめる、自分を許し続けることの大切さにいきつくようです。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.「傷ついた心」というのは幻想であり、それは一種の癇癪である
私たちは愛する人が自分の望みどおりに行動してくれないと、心が傷ついたと感じます。
そこで自分の心を取りだして「ばらばらに砕いてしまうぞ」と脅し、「きっといまごろ相手は後悔しているだろう」と思うのです。
けれどもあなた本人が感じると選択していない、あるいは現に感じてもいないことを、だれかほかの人が感じさせることはできません。
たとえ、あなたが「こうあるべき」と考えていることと違う現実でも受け入れるのなら、そこであがってくるおびただしい過剰を感じながら、さらに与える機会にできるのです。
そうすと新しいあなたの人生の誕生を迎えることができます。
まったく新たな愛のレベルへと足を踏み入れ、自信とパワーが生まれてくることでしょう。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.195
2.罪の意識と、それに対する反応
「傷つけられた」と感じるのは、一種の癇癪
今日のタイトルは、秀逸ですよねぇ…
「傷ついた心」というのは幻想であり、それは一種の癇癪である
「傷ついた心」が、癇癪である。
勘のいい方は、これを聞いただけで、「うっ…」とくるかもしれません。
私はこれを読んで、幼いころ、母親に対して癇癪を起していた自分を思い出しました笑
そうなんですよね。
「あの人に、私の心は傷つけられた」というとき、日本語としては何も間違っていません。
けれども、それは真実ではないようです。
なぜなら、自分の心を傷つけることができるのは、自分しかいない。
これが、今日のテーマのようです。
愛する人が、自分の望み通りに動かないから
引用文のここの分とか、ほんと秀逸です。
私たちは愛する人が自分の望みどおりに行動してくれないと、心が傷ついたと感じます。
そこで自分の心を取りだして「ばらばらに砕いてしまうぞ」と脅し、「きっといまごろ相手は後悔しているだろう」と思うのです。
愛する人が、自分の望み通りに動かない。
そのとき、私たちはその相手を脅迫したり、癇癪を起したりします。
上に書いた私のことでいえば、何か、母親が思い通りの反応を示してくれなかったのでしょうね。
それが何だったのかは、もう覚えていませんが…
母親に対してキャンキャンと怒って、「もう、この家から出てっちゃうぞ!」とかなんとか、言っていたような気がします笑
はい、ほんとに、自分の心を取りだして、「あなたが思い通りにならないなら、もうこの心を砕いちゃうぞ」と脅す。
そして、「これだけ言えば、後悔して、自分の望み通りになるだろう」と思い込む。
まさに、引用文の通りです。
あれは、何歳くらいの記憶だったかな…3歳児や、5歳児ならば、かわいげもあるのでしょう。
けれど私たちは、同じようなことを、大人になっても、パートナーや身近な人に、やってしまうんですよね…
あ、すいません、「私たち」と書きましたが、私だけですかね笑
そんなことは、無いと思いますが…
それはともかく、私たちは、自分で「傷つけられた」ということを選んでいるようです。
「傷つけられた」自分を選んでいる
上に書いたような、癇癪ではなくても。
時に私たちは、自分が「傷つけられる」ことを選んでしまう場面が、あります。
たとえば、
「あなたは、ポカミスが多いんだよねぇ」
と仕事の上司に言われたとして。
「そうなんです…こんなにミスばかりの私なんて、価値ないですよね…」と、どんよりするか。
「はい、そうなんです。だから、周りの方にはほんと助けていただいてます」とニッコリ笑うか。
言われたことに対して、180度違う受けとり方をしているわけです。
自分を傷つける方を選ぶか、その逆か。
あるいは、パートナーの浮気が発覚したとして、
「私に魅力が無いから、こんなことになるのかも…」と自分を責めるか、
「最近マンネリ気味で、別れを考えてたんだよね。気になる人もいるし、ちょうどいいきっかけになった」ととらえるか。
同じ事実があったとしても、それをどう取るかは、人によって全く違います。
「傷つけられた」ととらえるか、「傷ついている自分」を自分が選んでいる、ととらえるか。
後者は、少し前の記事でお話しした、「すべてを自分自身が選んでいるとしたら」と考えることと、似ています。
「すべてを自分で選んでいる」
それを、自己否定に使う必要はありません。
「だから、私はダメなんだ」なんて、思わなくていいんです。
「それなら、別のものを選んでもいいんだ」というくらいで、いいんだと思います。
そう思えることができたなら、自分の生が、ぴたりとこの自分の手のなかにおさまるようです。
3.ダイヤモンドは傷つかない
「傷つく」ということは、自分で自分を責めていること
自分以外に、自分を傷つけることのできる人は、いない。
よく言われることです。
「傷つけられた」と思うとき、それは自分が自分に対して「そう責めている」ことの場合が、ほとんどです。
「あなたって、ほんと気が利かないよね」
そう言われて傷つくのは、自分で自分のことを「気が利かない」と責めているときだけです。
そうでなければ、「あれ?そうでもないけど?」と流すことができます。
そう考えてみると、「傷ついた」と感じるできごとがあったときは、何がしか自分が自分を責めているところがあるんだなぁ、と見ることができそうです。
自分以外に、自分を傷つけることなど、できない。
傷ついたと感じるたびに、思い出したい真実です。
ダイヤモンドの研磨剤は、やっぱりダイヤモンド
よくするたとえ話なのですが。
非常に硬い鉱物であるダイヤモンド。
それを研磨するとき、研磨剤はやはりダイヤモンドなんだそうです。
傷をつけることも難しいダイヤモンド、それを傷つけることができるのは、ダイヤモンド自身。
どこか、自分を傷つけることができるのは、自分自身ということと、似ているように思います。
誰しもが、ダイヤモンドのような輝きを持っている。
ときに、それを忘れてしまうのかもしれません。
どこまでも、自分を責めることを、やめる。
自分を、許し続ける。
私がカウンセリングでお伝えしているのも、結局、それらに集約されるように思います。
今日もここまでお読みくださり、ありがとうございました。
【ご案内】
私のカウンセリングの師匠でもあります根本裕幸師匠が、幸せなパートナーシップのための連続講座を開講されます!
私の先輩でもあります5人の心理学講師と、5か月間にわたってパートナーシップの学びを深めてはいかがでしょうか。
詳細はこちらからどうぞ↓