心理的に誰かと闘っているとき。
それに勝っても負けても、闘いは終わらず、その螺旋からは降りられません。
その闘いを終わらせるための処方箋について、お伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.闘っていると、自分もそうなってしまう
私たちは闘っている相手の性質を、いつのまにか自分でも身につけてしまうものです。
「反逆者」の性質は、つねに内面に「暴君」を隠しています。
私たちの人格のなかでは、支配的な「暴君」を「反逆者」が倒したときに「反逆者」がリーダーになります。
ところが時間がたつにつれ、その「反逆者」は倒したはずの「暴君」と同じような特徴をあらわしはじめるのです。
結局あなたが抵抗することは、すべてしつこく続くことになってしまいます。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.323
2.革命の旗手は、いつのまにか専制君主になる
今日のテーマは、深いですね。
どの切り口で見るかによって、大きく変わると思いますが、私が感じるのは「統合」でしょうか。
闘っていると、自分がその相手に似てくる
闘う相手が、自分の外に世界にあるとき。
それは、自分のなかに、正誤善悪の判断があるときといえます。
だって「闘う」には、相手役だったり、悪役だったり、暴君が必要ですから。
「闘う」というと物騒に聞こえますが、私たちは無意識的に、何かと闘おうとします。
それは、親であるかもしれませんし、上司であるかもしれませんし、パートナーであるかもしれませんし、はたまは社会や慣習、あるいは神さまかもしれません。
その根底にあるのは、
「自分の方が正しい、あいつが間違っている。だからあいつを正さないといけない」
という観念でしょうか。
しかし、この闘いが長引けば長引くほど、その相手に自分が似てくる、ということが起こります。
はい、とてもイヤな話ですねぇ…
ある意味で、それは当たり前なのかもしれません。
闘いが長くなれば、その相手の言動を見る時間や、相手を意識する時間が長くなります。
それを続けていくということは、自分の意識に相手の言動を染み込ませていくようなものといえます。
たとえば、ある人がダンスを学ぼうとして、ダンスの教室に通いはじめたとします。
きっとその人は、ダンス教室の先生の動きや言動、あるいは考え方、哲学といったものを、目を皿のようにして観て、学ぼうとするでしょう。
教室が終わって、自分一人でトレーニングするときも、
「あんなふうに踊りたい!」
と、先生のお手本をイメージするのではないでしょうか。
そうしていくうちに、少しずつ先生のダンスに近づいていくのでしょう。
闘っている相手がいるということは、それと同じといえます。
それがイヤな相手や、闘っている相手だったりしても、私たちの意識の底では関係ありません。
闘いが長引けば、自分が闘っている相手に似てくるのは、当たり前ともいえます。
ある意味で、とっても怖い話ですね…
勝っても負けても、闘いの螺旋からは降りられない
親子関係やパートナーシップといった、深い人間関係になればなるほど、そうした傾向は強くあらわれます。
以前につきあっていたパートナーにされてイヤだったことを、いまのパートナーに対して自分がしていたり。
あんなに許せなかった両親の行動を、自分が親になったら子どもにしていて、愕然としたり。
「許せなかった両親の行動を、今度はあなたがするようになる」
↑以前にそんなテーマを書きました
そういったことは、よくある話ではないでしょうか。
革命の旗手が、いつのまにか専制君主になっていたり。
野党が政権を取ったとたんに、自らが批判してた政策をしたり。
そんなことも、歴史のなかではごまんと出てくる話です。
何かと「闘う」という心理は、結局のところ、その闘いに勝ったところで、同じ場所に戻って立場を変えるだけなのかもしれません。
そして、闘えば闘うほどに、相手のイヤな性質に、自分が似てきてしまう。
闘いに負けたら、自分が間違っているというみじめさに苛まれるから、闘い続けないといけない。
闘いに勝っても、負けた相手の反撃におびえ、闘い続けなくてはならない。
いずれにしても、闘いの螺旋から降りることはできないようです。
感覚的なのですが、それは「輪廻」の構造と、よく似ています。
それを終わらせるのは、解脱であり、悟りとよばれるものです。
3.「闘い」を終わらせるものとは
仏教の教えでは、「輪廻」を抜けだすのは、解脱であり悟りとよばれるものです。
では、「闘い」を終わらせるものは、何でしょうか。
それは勝つことでもなく、負けることでもなく、逃げることでもありません。
あなたが闘っている相手。
その相手に見る、イヤな性質、許せない性質、間違っている性質。
そこには、何がしかの「いい/悪い」という価値判断が入っています。
あなたは、なぜその相手の性質を、「悪い」と決めつけたのでしょうか。
なぜ、その相手を間違っていると思ったのでしょうか。
なぜ、その相手の言動を、許せないと思ったのでしょうか。
そこには、なにがしかの痛みがあり、傷があります。
そこには、とても苦しくて、辛くて、悲しくて、寂しくて、やりきれなかったという想いがあります。
まずは、その想いを抱きしめてあげてください。
どうしようもなかったんだよね、と。
不思議なのですが。
それをするたびに、相手の性質に感じる嫌悪感が、ゆるんでいきます。
それまでの嫌悪感が120%だったのが、100%になり、80%になり、45%になり…ゆるんでいきます。
その闘っている相手がゾーマだったのが、バラモスになり、やまたのおろちになり、やがてカンダタくらいになります。
あ、すいません、ドラクエを知らない人にはわからないたとえでした笑
不思議なのですが。
そうしてゆるんでいくと、闘っている相手が、自分のように感じられる瞬間があります。
正確には、闘っている相手のイヤな性質が、自分のなかにもあるものだと感じられる瞬間、でしょうか。
その部分を、愛してあげるんです。
両の腕に抱き、受け入れ、あたため、そして愛してあげる。
そうしたとき、闘いの相手は闘いの相手ではなくなります。
言ってみれば、闘いを終わらせるのは、一体感であり、つながりであり、愛なのでしょう。
なんだ、結局、愛かよ、と思われるかもしれません笑
けれど、結局、そうなんだと思うのです。
そんな当たり前の話を、これからも何度もしていきたいと思っています。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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