大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

他人からの非難がムカつくのは、自分がそこに罪悪感を持っているからであり、だからこそ自分にとって大切なものを教えてくれる。

他人から非難されて傷ついたり、怒りを感じたりするのは、自分自身もそこを責めていたり、罪悪感を持っているからです。

だからこそ、それは自分にとって大切な部分であると見ることができます。

他人の非難から、自分の愛を見つける視点をお伝えします。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.人からの非難にカチンとくるのは、自分に罪悪感をもっているから

人はあなたを利己的だとか、よい親ではないとか、はては盗人だの痴漢だのと、ありとあらゆることで非難することができます。

でも、あなたの気にさわる非難は、すでにあなたが罪悪感を抱いていることについてだけなのです。

あなたの心のどこかであらかじめ罪の意識を感じていなければ、ほかのだれかがあなたに罪悪感を感じさせることはできません。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.322

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2.傷つくのは、自分がそれを責めているから

今日のテーマは、「他人からの非難」でしょうか。

できればご遠慮願いたいテーマですが、それに遭遇したときに持っていたい視点をお伝えします。

他人からの非難で傷つく理由

他人から、何か非難をされること。

まあ、生きていればありますよね…そういうことも(遠い目)

自分が何かミスや間違いをしてしまった場合もあれば、それこそ、いわれのない誤解から非難されたりすることもあるでしょう。

仕事の場面でも、プライベートの場でも。

イヤなものですね、ほんと。

…というところで終わってしまっては、あまり意味がないので、本題に入ります笑

私たちが、他人から非難されたとき。

そのときに、私たちが傷ついたり、怒りを感じたり、ネガティブな反応をする場合があります。

それとは逆に、「ふーん、そうなのかぁ」と、軽くスルーできたりする場合もあります。

もちろんそれは、その人の個性や性格、資質からくる面もあるとは思いますが、大前提として考えたいのは、次の点です。

私たちは、自分がそうだと思っていて、それを責めている部分を非難されると、それに大きく反応して、傷つきます。

反対に、自分がそこに何とも思っていない部分を非難されても、何とも思わないわけです。

たとえとして適切かはわからないのですが笑、今年の我が中日ドラゴンズは、健闘も実らず、残念ながらリーグ最下位に甘んじています。

そこに、やるせなさや、ファンとしての力の及ばなさ、あるいは無力感のようなものを感じています。

だからこそ、そこを非難する記事なんかを見ると、「なにを、このヤロウ!」とカチンとくるわけです。

あ、分かりづらいですかね笑

別のたとえにしましょうか。

最近の私は、夏の暑さにかまけて運動不足で、すくすくと体重が成長しております。

「運動しなきゃなぁ…」と思いつつ、運動できていないことを責めていたりします。

そこで、久しぶりにあった人に、「あれ、またずいぶんと丸くなった?」と言われると、なんだかへこんだり、カチンときたりするわけです。

そこで、「え、180度開脚ができないの、おかしくない?」とか、「あれ、まだフェルマーの最終定理を解けていないの?」とか言われても、何とも思わないわけです。

別に、それができないことを受け入れているし、それを責めてもいないからです。

私たちが他人から非難されて傷つくのは、そのことに対して自分自身もまた責めているからといえます。

その痛みに触れるから、カチンときたり、傷ついたりするわけです。

そして、それが自分にとって大事なことであればあるほど、深く傷つきます。

他人からの非難を考えるときに、持っておきたい視点です。

「問題」の構造と、よく似ている

私たちは、大事なものでしか、傷つかない。

これは、人生のなかで起こる「問題」でも、似たような構造があります。

私たちは、大事なことでしか、悩まないわけです。

パートナーシップにせよ、仕事のことにせよ、親子関係にせよ、お金のことにせよ、健康のことにせよ…大事なことでしか、人はわざわざ時間と労力をかけて、悩まないわけです。

それは、渦中にいると、とても忘れてしまいがちな視点です。

自分にとって、この人生をかけた悩みが、他の人にとっては、明日の天気よりもどうでもいいことだったりします。

考えてみると、それは当たり前なんですよね。

私にとって大事なものは、他の人にとって大事なものでは、ないかもしれない。

もちろん、悩む人の多い・少ないといった濃淡はあるかもしれませんが、自分にとっての大切さは、比べるものでもありません。

自分にとっての「問題」とは、それだけ自分にとっての大切なもの。

自分がそのことを大切にしていることを自覚すると、心が落ち着いたり、楽になったりします。

「あぁ、それだけ自分にとって、大切なものなんだな」

「こんなにも毎日考えているってことは、自分の人生で大事なことだからなんだろうな」

それは言ってみれば、「問題」の痛みや傷を超えて、自分自身の愛とつながる視点といえます。

3.他人の非難は、大切なものを教えてくれる。

「問題」とは、自分自身の大切なものを教えてくれる。

そうであるならば、誰かから非難されて傷つくところもまた、同じなのかもしれません。

誰かから非難されて、カチンときたり、心が揺れたり、傷ついたり感じたら。

自分もまた、自分自身を非難したり、責めていたりすることがあります。

どうして、そこまで自分に厳しくしてしまうか。

自分を責めたりしてしまうか。

あるいは、罪悪感を抱いたりしてしまうのか。

それは、自分にとっての大切なものだから、ではないでしょうか。

ここで、その「大切なもの」を、「仕事」とか「パートナーシップ」とか、大きなくくりで考えるよりも、もう少し解像度を上げてみることをおすすめします。

仕事の上で非難されて、とっても怒りを感じたとしたら。

それはもちろん、「仕事」がその人にとって大切なものであることは、間違いありません。

その上で、「仕事」のどんな部分を非難されたのが、イヤだったのでしょうか。

自分の仕事の進め方でしょうか。

あるいは、仕事の成果やアウトプットの質でしょうか。

それとも、周りの人とのかかわり方でしょうか。

それによって、「大切なもの」というのは大きくちがうわけです。

それを、じっくり考えてみると、自分自身というものが、少しずつ見えてきます。

「あぁ、私はこういうところが、大切なんだな」

そうすると、他人からの非難に怒ったり、傷ついたりする自分を、受け入れることができます。

「それだけ大切なんだから、傷ついちゃうよね」

「そんな大切なものだから、怒るのも仕方ないよね」

といった具合に。

もちろん、誰かから非難されてカチンときたり、ムカついたりしているときに、そこまで考えるのは難しいものです。

けれども、時間をおいてからでも、それは考える価値のある視点だと思います。

 

他人から非難が刺さるのは、自分自身もそこを責めているから。

その部分は、自分にとって、とても大切なもの。

「他人からの非難」を考えるときの視点を、今日はお伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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