誰かに与えようとしたのに、自分が傷ついてしまうことがあります。
自分が思っていたリアクションが返ってこなかったり、受け取ってもらえなかったり。
なぜ、傷ついてしまうのかという心理と、与えようとしたことに価値を見る視点をお伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.与えることで傷ついたときは、何かをもらうために与えていたのだ
私たちはよく、人生最高の期間を夫や妻のためにささげてしまった、という態度をとりがちです。
自分が相手に与えたのにそれを認めてもらえず、傷ついた、拒絶されたと感じて、人生を無駄にしてしまったような気分になるのです。
しかし、与えているのに傷つくとしたら、それは何かをもらおう、うばおうとして与えていたのです。
つまり、相手があなたの望みどおりの形で何かを返してくれること、という契約を勝手にあなたが結んでいたのです。
あなたが自由に与えるなら、押しやられることはありません。
何も手に入れようとせず、何も必要としていないときは、拒絶されることはないからです。
ただ純粋な愛情から与えていれば、傷つくという反応は起こりえないのです。
与えることで満ち足りているときは、自分も十分に受け取ることができます。
そのときは相手からどんな反応が返ってきても、まったく問題にはなりません。
なぜなら、与えることそのものがすでに十分な報いだからです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.78
2.「与える」ことと、それに似たもの
今日のテーマは、いやな話ですねぇ…思い当たる節がありありと浮かんできます笑
とはいえ、「やさしい心理学」のコンセプトを以前にお書きした通り、できるだけ心理学を自分責めに使わないように、書いていきたいと思います。
テーマとしては、「与える」ということになるでしょうか。
「与える」とは、愛することの一部
まず、「与える」ということを定義してみます。
箇条書きにした方が、イメージしやすいかもしれませんので、そうしてみますね。
「与える」とは・・・
- 愛することの一部である
- 相手が喜びを感じる行為をしてあげることである
- 物品や金銭など、物理的なものを与えることに限らない
- 相手のことを想ったり、祈ったりすることも、与えることである
- その行為自体に、自分が喜びを感じることができる状態である
- 主体性がある(自分がしたいからする)行為である
- 見返りを求めない行為である
いかがでしょうか。
少し、イメージがつきましたでしょうか。
自立的な人は、「与える」ことが得意です。
相手のために、何ができるだろうと、平常運転で考えていたりします。
誰かのために、与えたい。何かしてあげたい。
そう思うことができるのは、人間の美しさではないかと、私は感じます。
「与える」に似て非なるもの5つ
しかし、そうはいっても、なかなか単純に「与える」ことができないのが、私たちの性なのでしょう。
誰かのために「与える」ことをしたはずなのに、自分が傷ついた経験は、多くの人が持っているのではないでしょうか。
特に、パートナーシップといった関係では、それが顕著になりますよね。
「あなたのためを思って、してあげたのに!」とか笑
「与える」ことは愛からの行為のはずなのに、どうしてそうなってしまうのか。
そんなときは、その行為が「与える」ことに似ているけれど、違う行為だったのかもしれません。
「与える」ことに似ているけれど違う、代表的なものが5つあります。
1:期待
文字通り、相手からのリアクションを「期待」してしまっている状態です。
それは、愛からの行為というよりは、自分の勝手な欲求の表現になります。
だから相手の反応が薄かったりすると、怒ったり傷ついたりするわけです。
「期待は裏切られる」という格言が心理学にはありますが、こうした欲求は満たされることはなく、もし満たされたとしても、「まだ足りない!」となるのが常です。
2:取引
これも、分かりやすいですね。
ギブ&テイクよろしく、「与えたから、同じだけちょうだいね」と主張している状態です。
ビジネスのように契約書を取り交わしているわけではありませんから、これもまたうまくいかないわけです。
相手からしたら、勝手に商品を押しつけて、代金を要求する押し売りのように感じてしまうかもしれません。
3:犠牲
相手のために、自分が幸せではない行動を取ることを、犠牲とよびます。
「与える」ことの特徴の一つに、「自分の喜びでもある」ということがあります。
「与える」こと自体が、喜びであり、うれしいことなんですよね。
けれど、犠牲の場合は、その逆になってしまっています。
客観的に見れば、その行為自体はすばらしいものだけれども、やっている本人に喜びや充実感がありません。
そのため、エネルギーが切れてできなくなったり、与えようとすればするほど、空虚感を覚えたりします。
いずれにしても、幸せな状態ではありません。
4:補償行為
何がしかの罪をつぐなうために、する行為のことです。
見かけとしては、「犠牲」ととても似ています。
「犠牲」が怖れや不安から発するものなのに対して、「補償行為」は上に書いたように罪悪感がベースになっています。
たとえば、有休を使って旅行に行ったとして、何か後ろめたいから、職場に無駄に豪華なお土産を買って帰ったり。
いろんな場面で、ありますよね。
やさしい人や、人の気持ちを推し量れる人に、多い傾向かもしれません。
5:奪う
「与える」こととは、ほど遠いニュアンスですが、これもよくある心理です。
「与える」ことで、何かを奪おうとするマインドが、時に私たちのなかにはあります。
今日の引用文のなかにも、出てきますよね。
与えているのに傷つくとしたら、それは何かをもらおう、うばおうとして与えていたのです。
取引と近いのかもしれませんが、取引よりももっと「ちょうだい」というニュアンスが強い、依存的な心理といえるかもしれません。
ということで、5つの代表的な「与えるに似て非なるもの」を4つ見てきました。
「あるなぁ、あるなぁ」とつぶやきながら書いてしまいましたが笑、いかがでしたでしょうか。
それがダメなことと責めるよりも、「そんな見方もできるのね」というくらいで読んでいただければ、幸いです。
3.それでも、与えようとした価値を見る
「自立の依存」の問題
ということで、いろんな心理を見てきましたが、「与える」ことはかくも難しいものです。
こうした難しさの根源には、「自立の依存」の問題があります。
私たちの心の成長プロセスは、「依存→自立→相互依存」と進んでいきます。
以前に、こちらの記事でも詳しく見ていきました
↓
自立的な人は、相手の依存を認めることで、豊かなパートナーシップを育むことができる。
しかし、自立のなかに「自立の依存」という状態があります。
自立していく中で、依存をまだ隠し持っている状態といえるでしょうか。
この状態は、自分の足で立っているように見えて、実は他人に寄りかかっている状態です。
依存から抜け出しつつあるので、「与える」ことに目が向くようになりますが、心のなかにはまだ「ちょうだい、ちょうだい」というマインドが残っています。
だから、期待もしますし、取引してでも、もらいたくなります。
これが、ややこしいんですよね。
自立を抜け出すカギは「受け取る」ことですが、自立の依存の状態では、ほんとうの意味で「受け取る」ことができなかったりします。
ただ、「受け取る」こととは、相手の愛に感謝する喜びのなかにありますが、依存が残っていると、なかなかそこに至るのは難しいものです。
「足りない」という不満だったり、「もっと」という不足感が、前に来てしまいます。
引用文にあるように、「受け取る」と「与える」は同時に起こります。
与えることで満ち足りているときは、自分も十分に受け取ることができます。
そのときは相手からどんな反応が返ってきても、まったく問題にはなりません。
なぜなら、与えることそのものがすでに十分な報いだからです。
頭では分かっても、なかなか難しいものです。
日々私も、こうじゃない、ああじゃない、と悩んだりしています笑
どうして、そんなにも与えようとしたの?
こう書いてくると、「いままで与えてきたことは、間違っていた」と感じてしまうかもしれません。
決して、そうは思わないでいただきたいなと、思うんです。
それが期待だったとしても、取引だったとしても、犠牲でも補償行為でも奪うでも、何だったとしても。
どうして、そんなにまでして、その人に与えようとしたのでしょうか?
というのが、私のカウンセリングなんかでも、よく出てくるテーマです。
100%の愛から「与える」ことができればいいけれど、私たちは不完全な人間です。
どこかに取引や犠牲といったものが、入っていても、それでいいんだと思います。
そうしたヨコシマなものが入っていたとしても。
あなたが「与えたい」と思ったことは、真実なのでしょうから。
そこに、光を当ててほしいな、と思うのです。
その愛を思い出すこと、フォーカスすること。
それが、いろんなヨコシマな心理の罠や、自立の依存を抜け出すのに、とても有効なことだと、私は思うからです。
決して、与えてきたことを、間違っていたなんて、思わないでくださいね。
「そんな考え方もあるのか、でも与えたかったんだもん!」
くらいで、ちょうどいいと思うのです。
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