週末、息子とキャッチボールをすることがあります。
運動会で転ぶお父さんよろしく、なかなか思い通りに動かない身体に、翌日の肩の筋肉痛はなかなかのものですが、ボール遊びは楽しいものです。
捕っては投げ、投げては捕って。
ボールに遊んでもらっていた、子ども時代を思い出します。
それはどこか、セピア色の時代のようにも感じられるのです。
ただ時が流れたから、というわけでもなくて、その時代のことを想うと、セピア色が思い浮かぶのです。
野球というものが、いまよりも身近にあった時代だったように思います。
娯楽がずっと少ないなかで、プロ野球は皆が知っている共通の娯楽だったような気がします。
しかし、運動神経のあまりよくない私のこと、また内気な性格もあり、少年野球団には入っていませんでした。
両親が共働きだったこともあり、学校から帰ってきた私は、いつも壁当ての一人遊びをしていました。
家の前の駐車場の壁に向かって、一人でボールを投げる。
帰ってきたボールを捕っては、また投げる。
妄想の中で、私は中日のエースになったり、抑えになったりしていました。
ボール遊びは楽しいのですが、やはり、誰かと遊びたいという気持ちもありました。
ごくたまに、同級生の草野球に参加させてもらったりもしましたが、なかなか活躍できずに悔しい想いをしたりもしていました。
父と、キャッチボールをして、とてもうれしかった記憶があります。
そんな記憶が残るのですから、それはあまりないことだったのかもしれません。
あの時代のこと、朝早くから夜遅くまで働く父でした。
いまと違って、土曜日も半日は学校も会社もあったと思います。
日曜日は、家のことをしたりするだけで、手いっぱいだったのかもしれません。
あのキャッチボールをしたのは、初夏の季節だったように思います。
キャッチボールを終えて、家に帰ってくるとき、シャツにびっしょりと汗をかいていた父の背中を、よく覚えています。
だからでしょうか。
息子とキャッチボールをしていると、嫉妬を感じたりもします。
「自分は、全然父親とキャッチボールしてもらってない。それなのに、こいつはズルい」
自分のなかの5歳児が、あばれるわけです。
それで時には、険悪なムードになったりもします。
「へた!ちゃんとおしえてくれない!」
「こっちは貴重な時間を割いてやってるのに、なんだ、その言いぐさは!」
とかなんとか、ギャーギャー言い合うわけです。
結局、自分の与えてもらっていないもの、自分にないものを与えようとするとき、人は抵抗を感じるのかもしれません。
「与えられてないのに、なぜあげないといけないの?」
そう思うのが、当たり前であり、人情です。
そりゃあ、そうですよね。
けれども、自分にないものを与えようとすることこそ、愛と呼ぶのかもしれません。
自分の手にあるものを与えるのは、義務です。
それは、当たり前のことです。
それをしないのは、ただのケチです。
それを超えて、自分にないものを与えるようとすること、そこに人の愛の尊さがあります。
ええ、わかっちゃいるんですけどね笑
でもね、時にひねくれたくなるのも、人なんですよね。
それで、いいんだと思います。
いつか、息子が大きくなったら。
誰かと、キャッチボールをすることがあるのでしょうか。
いま、息子は、何を与えられていないと感じているのでしょう。
きっと、いろいろとあるのだろうな、とは思います。
どれだけ与えようとしても、足りないものですものね。
けれども、息子が、与えられていないもの。
それを、与えられる人になってもらえたらいいな、と思います。
それもまた、コントロールなのでしょうか。
それでも、まあいいかな、と思ったりもするのです。
いつも息子は、キャッチボールのお誘いを夕方にしてきます。
捕っては投げ、投げては捕っていると。
沈みゆく夕陽が、公園をオレンジ色に照らしていきます。
それがまた、そのセピア色の記憶を見せてくれるのかもしれません。