女性性が育む「ともに生きる」という世界は、自己受容と深い関係があります。
それは、どんな自分でも受け入れるという姿勢を、周りの世界に投影したものであるからです。
1.女性性が育むのは「ともに生きる」という世界
先日の記事では、女性性が育むのは「ともに生きる」という世界、というテーマでお伝えしました。
女性性が導く「ともに生きる」世界は、相互依存の入口。 - 大嵜直人のブログ
誰のなかにでも、男性性と女性性という力、資質、エネルギーがあります。
男性性とは、地に足をつけ、ものごとを形にしたり、決断したり、力強さを与えたり、時には苦しいことにも耐える力を与える力です。
一方で女性性とは、受け入れ、育み、包み込み、許し、また自由であり、そして情感の豊かさやインスピレーションを与えてくれる力です。
それらは車の両輪のように、どちらが欠けても前に進まないものです。
しかし、それらがバランスを欠いていたり、あるいは傷ついていたりすると、私たちが生きるなかで、さまざまな問題を抱えやすくなります。
女性性が傷ついていると「依存」の問題を抱えやすく、男性性が傷ついていると「自立」の問題を抱えやすくなったりします。
そして、「自立」を癒してくれるのが、成熟した女性性です。
それは、「自立」の自分一人で何でもやって生きていく、という世界から、「ともに生きる」という相互依存の世界の扉を開いてくれるものです。
それだけ、成熟した女性性というのは素晴らしいものであり、尊いものです。
2.「ともに生きる」相手とは
女性性が導いてくれる、「ともに生きる」という世界。
自分一人だけで生きていくという「自立」の先にあるステージですから、自分を助けてくれる味方とともに生きることをイメージされるかもしれません。
もちろん、それも一つのイメージです。
というか、「自立」はその助けすら、拒否してしまいがちですから笑
しかし、今日お伝えしたいのは、「ともに生きる」その相手は、自分の味方や自分の気に入った相手だけ「ではない」という点です。
時には自分が受け入れ難い相手や、自分の嫌いな相手との関係性をも、築くことができるのが、この「ともに生きる」という世界です。
別に、イヤな相手と我慢して付き合うとか、そういったことではありません。
その相手を尊重し、「ともに生きる」ことを許すというか、そういったイメージです。
許す、というとちょっと上から目線からのように聞こえるかもしれませんが、でも、そうなんです。
これ、真に成熟した女性性の持つ、偉大な力とも関係しています。
女性性は、真に受け入れることのできる力です。
それは、誰でも分け隔てなく許し、愛することのできる力です。
それゆえ、女性性が導く「ともに生きる」という世界では、
「あなたも、そこにいていい」
と言える力を持つことができるんですよね。
3.「ともに生きる」ことと自己受容との深い関係
これ、何も道徳的な観点から、そう言っているわけではありません。
それをする自分自身にとっても、大きな影響があるんです。
好き相手だけを受け入れるということは、自分に対してもそれと同じことをするわけです。
「この自分はOK」「この自分はダメ」といったように。
往々にして、その自分というのは、何か人よりも優れている点だったり、分かりやすい成果や結果を出している点で、自分を認めたり、受け入れようとしたりします。
これが、終わりのないラットレースのはじまりであることは、想像に難くないと思います。
そういう自分でいられるときはいいのですが、そうではない自分になったときに、ものすごくしんどくなってしまいます。
そうではなくて、「どの自分もOK」「これも私だから、しょうがないよね」と受け入れることができると、ラットレースに参加しなくても済むようになります。
だから、「ともに生きる」とは、こうした自己受容を、周りの世界に投影した状態といえます。
「あなたも、わたしも、ここにいていい」
「ともに生きる」とは、そんなイメージでしょうか。
それは、やはり成熟した女性性が導いてくれる世界なのでしょう。
今日は、「ともに生きる」ことと自己受容の深い関係、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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