「寂しさ」を我慢することは、あまりいいことではありませんが、それでも自分を責める必要はありません。
「寂しさ」を我慢することで、誰かを守ろうとしていたのかもしれないのですから。
1.「寂しい」と言えない心理
先日の記事では、「寂しい」と言えない心理、というテーマでお伝えしました。
「寂しさ」というテーマを続けております。
「寂しさ」とはネガティブな感情ではありますが、私たちにとって大切な感情でもあります。
それがあるゆえに、人とつながりを感じることもできますし、また孤独を癒そうとすることもできます。
こうした「寂しさ」を我慢したり、抑えつけたりしようとしても、それはなくなりません。
「寂しさ」を抑えつけようとすると、それと同じくらいの刺激物を必要としたり、それを抑圧するのに膨大なエネルギーを使うことで、逆に無気力になってしまったりもします。
「寂しさ」って、大切な感情なんですよね。
ただ、こうした「寂しさ」を抑えてしまうことが、起こり得ます。
あまりに辛い別れがあったり、誰も助けてくれないという経験だったり…こうした過去の傷や痛みがあったとき、「寂しさ」の抑圧が起こります。
昨日の記事では、そんなテーマをお伝えしました。
2.それは、責めることではない
さて、今日はこの「寂しさ」を抑えつけたり、我慢したりすることは、自分を責めることではない、とお伝えしたいと思います。
確かに、「寂しさ」は抑えたり、我慢したりすると、あまりロクなことがありません。
これまで触れたように、「寂しさ」を感じないようにするために、アルコールやギャンブル、あるいはハードワークといった刺激物が必要になったり。
あるいは、「寂しさ」を抑えつけるためにエネルギーを使い過ぎて、他に何もできないくらい疲弊してしまったり。
そうしたネガティブな帰結をもたらすことがあるのが、「寂しさ」の抑圧です。
ただ、こうした帰結があったとしても。
それは、「いけないこと」でもないんですよね。
しない方がいいけれど、してしまうときもあるもの、くらいにとらえておくのが、ちょうどいいのかもしれません。
まして、「なぜ、寂しさを我慢してしまったのか」とばかりに、自分を責めるネタにしなくてもいいんです。
「しない方がいいこと」と、「することが悪いこと」は、別なんですよね。
それをしてしまったところで、自分を責めることもありませんし、自分いじめのネタにすることも必要ありません。
「そうするほか、なかったんだよね」
まずは、そう自分に声がけをすることが大切なのだと思うのです。
3.誰かを守るために「寂しさ」を我慢することもある
「寂しさ」は抑圧しない方がいけれど、抑圧してしまったとしても、それは自分を責めることでもない。
そうとらえるためには、「寂しさ」を抑えてしまう心理を、少し深掘りすることも、有効だったりします。
なにも、自分のためだけに「寂しさ」を我慢したのでは、ないかもしれないのです。
大切な人との別れがあったとき。
親しい人を亡くしたとき。
そうしたときに、自分が「寂しい」と言わないことで、誰かを守ろうとすることも、あるように思うのです。
自分が「寂しい」と言ってしまったら、周りの誰かを傷つけてしまうから。
周りの大切な人の「寂しさ」を大切にするために、自分の「寂しさ」をできるだけ抑えようとした。
そんなことって、あるように思うのです。
もちろん、すべての人が当てはまるわけではありませんし、違う理由からかもしれません。
ただ、もしそうだったとしたら。
誰かを守るろうとするために、「寂しさ」を我慢したことは、決して責められるようなことではないように思うのです。
責めるよりも。
よく、我慢してきたよね。
そう、自分に声をかけてあげることが、何よりも大切なことだと思うのです。
今日は、「寂しさ」を我慢したあなたは、誰かを守ろうとしていたのかもしれない、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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