「継続は力なり」を始め、継続性の尊さはいろんなところで語られる。
現在の日本において、新しく開業する飲食店の35%が1年経たずに閉店し、3年続くお店は10%程度だという話もある。
何百年も続いている名店は、その存在自体が希少であり価値を持つ。
同じように、人が何かをやり続けることもまた尊く価値がある。
そしてその希少な継続性を叶えるのは、「とりあえずやってみる」という多様性と、続かなくても当たり前くらいに構える寛容さのように思う。
それがあれば、いつか必ず熾火のように消えない情熱を持って続けられるものが見つかる。
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このブログも、一年半近く毎日更新を続けられている。
ときどき、「何で続けられるの?」「続けることの秘訣は?」と聞かれるのだが、「何ででしょう?」としか答えようがない。
言ってみれば、習慣化されているのだろうが、じゃあなぜ「毎日ブログを書く」ことが習慣化できたか、と聞かれると、「たまたま私に合ってた」だけのような気がするのだ。
数年前から自分がイヤで、ここから変わりたいと思っていろいろとやり始めたことの中で、続かなかった習慣もあるからだ。
ランニングは毎日走らなくなったし、アファメーションも今はやってないし、「ありがとう」を言い続けるのも続かなかったし、そのほかやってみたけど、続かなくてやめてしまった習慣などいくらでもある。
ただ、書くことだけが今日まで残った。
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先日このエントリーでも書いたのだが、
要は今の私にとって書き続けることが心地よいコンフォートゾーンであり、書かないと居心地が悪いのだ。
このコンフォートゾーンは、いきなり変えるのは難しい。
情熱やエネルギーを一気にかければ、すぐに目に見える結果が変わることもある。
私なんかも、疲労骨折しててもランニング続けて、糖質制限をした食生活をしていたら10キロくらいするっと痩せた。
コストをかけて宣伝広告を大量に打つなりして、実績を大きく見せてセールスライティングを駆使して商品説明すれば、短期間で売上は上がるかもしれない。
相手を虜にする恋愛術とセールストークを磨いてファッションコンサルを受けて、いろんなところに顔を出していれば、パートナーが見つかるかもしれない。
けれど、結局走り続けられなくなった私の体重は、リバウンドしてすぐにもとに戻った。
もしかしたら同じように、
短期間で売上が上がっても、高コスト体質だったり利益率が低くなったり燃え尽きたりして、稼げなくなる状況に戻るのかもしれない。
パートナーがいるのに、愛されている実感など全く感じられず、独り身のとき以上の寂しさを感じてしまうのかもしれない。
どれだけ情熱やエネルギー、労力なりコストをかけて結果を無理やり変えたとしても、その負荷が大きすぎると、人は反動でもとのコンフォートゾーンの場所に戻ろうとする。
人は心地いい場所というのを覚えていて、急にそれを変えようとしても、無意識に元の場所に戻ろうとする。
コンフォートゾーンは、少しずつしか変わらない。
往々にしてそれを変えようとする人は、何らかの問題を抱えて、困って焦って、大急ぎで変えようとしてしまうのだけれど。
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それは、残酷なようだが、救いでもある。
なぜなら、裏を返せば「少しずつでも変えることができる」ことに他ならないのだから。
「コンフォートゾーンを変える」ということは、「夢や願望を叶える」ということと言い換えることもできる。
いまの自分とは異なる、心地よい世界に移ることを意味するのだから。
時間はかかっても、夢や願望は必ず叶う。
だとするなら、私たちにできることは、それを信じて一つ、また一つ、と積み重ねることが大切なのかもしれない。
そして、続けられるかどうかは、ときに自分に合っているかどうかで決まることもある。
何でも試してみることだ。
無駄なことなど何ひとつなくて、あらゆる経験はどれも等しく価値がある。
やってみた上で、その習慣はこの先ずっと死ぬまで続けられるくらい、無理のないものかどうか、何度でも考えてみればいいように思う。
どれだけ頑張って結果が出ようとも、その頑張りを永遠に続けられなくなったらしぼんでしまう結果なんて、たいして意味がないのだから。
そうして、無理をしないと続けられない習慣は、どんどん手放していけばいい。
合わなくて辞めることに、寛容であればいい。
そこに罪悪感は要らない。
ただ、自分に合わなかっただけの話だから。
その繰り返しで残ったもの、それこそが人生の屋台骨になる。
お金をもらわなくても、
時間がなくても、
誰からも褒められなくても、
逆に白い目で見られたとしても、
神様なり仏様に「今日があなたの人生の最後の日ですよ」と言われても、
息を吸って吐くように、続けることができるもの。
それこそが、あなたの人生の土台であり、全てになる。
この肉体としての生は、いつかはこの世から消え失せる。
結局いつかは往生して、ずっと会いたかったあの人たちにも会えるのかもしれない。
たとえ今日がその日だったとしても、私は書き続けたいと思うんだ。