そもそも運動神経は良くない方だが、それに輪をかけて水泳はダメだった。
家にバットとグローブがあって、ボールを投げることに親しんでいた分、球技はまだマシだったのかもしれない。
跳び箱、マット運動などの器械体操系は、まったく苦手だった。
軽々と跳び箱を跳んでいく友人たちを、うらやましく眺めていた。
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あれは、小学生のいつの夏休みだっただろう。
「クロールで25m泳げない生徒のための夏休み特別講習」があった。
小学校低学年だと、泳げない子がほとんどだろうから、やはり5,6年生のころだったのだろうか。
多くの子たちがクロール25mをクリアし、背泳ぎやバタフライに挑戦していく中、私は息継ぎがどうしてもできなかった。
水面から顔を出して息を継ぐのが、怖かったのだろうか。
毎回、25mプールの半分くらいまで行けばいい方だった。
軽々と息継ぎをマスターした周りの子たちを見ると、自分もできそうな気もするのだが、実際にやってみると足がついてしまう。
果たして私は、その特別講習の名簿に載せられ、貴重な夏休みに学校に通う羽目になった。
貴重な、といっても、私の夏休みは近所の公園で昆虫と戯れるくらいしか、予定はなかったのではあるが。
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当時、学校の先生も毎日、それに付き合ってくれていたと思うと、先生も大変だったのだろうなぁ、と感慨深い。
特別講習に通うメンバーは、20人くらいいただろうか。
いや、30人くらいだったか。
その中に、私の親しい友人はいなかった。
毎日の講習の終わりに、25mを泳ぐテストがあり、それをクリアすると翌日から来なくてもいいシステムだった。
夏の終わりが近づくごとに、特別講習に参加するメンバーは櫛の歯が欠けていくように減っていった。
みな、テストに合格して無罪放免となっていく。
私はといえば、相変わらず息継ぎができずにいた。
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この特別講習の期間だけは、学校に自転車で通うことが許されていたのが、救いだった。
一人、あの暑い夏の通学路を歩いて通うのは、嫌だったから。
酷暑が続くいまよりも、もう少しソフトな暑さだったような気はする。
それでも、帰り道の信号待ちで、遠くの方のアスファルトを見遣ると、チロチロと逃げ水がうごめき、ゆらゆらと蜃気楼が揺れていた。
今日も、ダメだったか。
しょげかえった少年は、その蜃気楼にケラケラと笑われているように思えた。
どこか、出口のない迷路のような夏だった。
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クロールをできなくても、季節は流れる。
いつしか、特別講習も最後の日になった。
もう、2学期はすぐそこまできていた。
この日まで残ったエリートは、私を含めて3人くらいだった。
身体のことは、ほんとうに思うようにいかないものだ。
つくづく、当時の小さな私はそう感じていた。
身体どころか、心すらも、思うままにならぬことを知るのは、だいぶ後のことだが。
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必死に手を大きく回す。
足を太ももから動かす。
そして。
水面から、顔を出す。
えいやっ
と息を吸った。
気付くと、私は端の壁面に手をついていた。
はじめて、自力で25mを泳いだ。
それも、特別講習の最後の日だった。
喜びよりも、ほっとしたような気がする。
他の子たちはどうだったのか、それも覚えていない。
それくらい、いっぱいいっぱいだったのだろう。
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ようやく肩の荷が下りた帰り道。
もうずいぶんと涼しくなっていた。
蜃気楼は、もう見えなかった。
なつのいろ。