自分を肯定することができると、執着が薄れていきます。
そうすると、自分が望まないできごとが起こったとしても、その現実の見方が変わっていくのです。
1.わたしの身体は、わたしだけのもの?
先日の記事では、わたしの身体は、わたしだけのもの?というテーマでお伝えしました。
わたしの身体は、わたしに与えられたのもであり、わたしだけのものではないもの。 - 大嵜直人のブログ
「自分を愛する」というテーマの流れからのお話でした。
自分を愛する。
そのなかの一つとして、自分の身体を愛する、というテーマがあります。
自分の身体を大切にすることは、私たちの自己肯定感によい影響を与えてくれます。
その逆もしかりで、自分を愛することができていないと、自分の身体をぞんざいに扱ってしまうこともあったりするでしょう。
身体が何らかのサインを出しているのに、それを無視したり。
あるいは、睡眠不足や運動不足、暴飲暴食といった、身体に悪いことを習慣にしてしまったり。
だから、自分の身体を大切にすることは、自分を愛することと密接につながっています。
先日の記事では、その自分の身体の扱い方について、「自分だけの持ち物ではない」という見方をご紹介しました。
どこか、私たちは自分の身体を、自分に与えられたものであり、自分だけのもののようにとらえてしまいがちです。
しかし、そうではない見方も、できるのではないでしょうか。
自分のものでもあるんだけれど、自分だけのものではないもの。
この世を生きている間に、預からせていただいているもの。
そうとらえることができると、自分の身体の扱い方が、少し変わるのではないでしょうか。
2.とらわれない、執着しない
今日は、この「自分の身体は、自分のものであって、自分だけのものではない」という見方を、少し広げてみたいと思います。
この見方を、執着の視点から見ると、おもしろいと思うのです。
といいますのは、自分の身体を「自分だけのもの」ととらえるのは、ある意味で「執着」といえるからです。
「この身体は、俺のものだ、誰にも渡さないぞ」
そんな凝り固まった感じは、執着ですよね。
そこからは、「自分のものだから、どんな扱いをしようが、自分の勝手だろう」という考え方が出てきてしまうのも、仕方ないことかもしれません。
執着は、どこか傲慢さとつながってしまうようです。
けれども、先日の記事で書いたように、自分の身体は、自分ののもであり、自分だけのものではありません。
いま自分の身体があるのは、連綿と受け継がれてきた命の連鎖の末端にあります。
「紡がれてきたもの、与えられたもの」と考えると、自分だけが自分の身体をどうこうしていいとは、あまりならないのではないでしょうか。
それは、ある意味で謙虚さであり、執着の対極にあるものです。
3.自分を肯定することができると、望まない現実の見方も変わる
ほんとうに、自分を愛せているとき。
自己肯定感が、真の意味で高いとき。
私たちは、執着からは遠いところにいます。
たとえば、目に見える現実が、自分の望む結果ではなかったとき。
それを、受け入れることができるんですよね。
それは、諦めることとは違います。
「起こっていることは、すべて正しい」
心理学にはそんな金言がありますが、起きている現実を受け止めた上で、自分がどうするかを大切にできるようになります。
そうしていくなかで、その望まない現実の見方もまた、変わっていきます。
人生最大の悲劇が、自分にとって大切なターニングポイントになったり。
受け入れ難い別れが、新しいつながりを刻むための要素になったり。
大失敗をして周りに迷惑をかけたことが、笑い話になったり。
そんな体験に、身に覚えのある方も多いのではないでしょうか。
自分を肯定すること、愛すること、許すことの大きな恩恵の一つが、ここにあります。
私もカウンセリングのなかで、そのような見方をお伝えしていきたいと思っています。
今日は、自分を肯定することができると、望まない現実の見方も変わる、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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