大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

痛みの記憶、あるいは写真について。

鋭い痛みが、左の親指に走った。

やってしまったと、瞬間的に思った。

調味料のガラス瓶の蓋のプラスチックの部分を、ゴミの分別のため外そうとしていた。

横着をして、手近にあったフォークの先を使って外そうとしたが、思いのほか、その蓋は固かった。

何とか蓋を外そうと、力を入れているうちに右手が滑って、瓶を持っていた左手の親指を刺してしまった。

親指の爪の隙間から、赤い血がみるみる滲んでくる。

それを見ているだけで、痛みが増したような気がした。

わざわざそんな面倒なことをしなければよかったのに、

横着をせずに、別の方法でやればよかったのに。

ティッシュで親指を抑えながら、そんな考えても仕方のない後悔が、次々と頭をよぎる。

痛みは、不思議だ。

それは、ぼんやりと眺めていた世界を、急に画素数を上げて見ることを要求してくる。

痛みがあると、ある意味で世界は鮮烈に見える。

それは、自意識を強烈に、あるいは暴力的なまでに、「いまここ」に呼び戻すからか。

それは、その痛みが走っている瞬間だけのみならず、時間が経ってからも、同じかもしれない。

後から振り返った時に、その痛みを抱えていた時間の記憶が、その前後とは異なるように。

痛みには、肉体的なそれと、こころのそれがある。

深く傷ついて、痛んでいる時、世界はその鮮烈な姿を見せる。

痛みは、ある種のフィルターなのかもしれない。

いや、逆か。

痛みが、ぼんやりとしたフィルターを、剥がすのか。

いまここに引き戻された意識は、左の親指を見つめる。

爪の根元が黒く滲んでいく。

もとの色に戻るのに、どれくらいかかるだろうか、などと考える。

指の先の、痛みとともに。

その痛みは、ある種の映像を私に想起させた。

こころがとても痛んでいた時期に、撮った写真。

画素数の荒い、枝垂れ桜の色は、いまもどこかに眠っているようだ。

たとえば、こころが深く痛んでいたとして。

その時期に撮った写真は、どこか、痛みを帯びる。

レンズを通して世界を見るように、世界はまたレンズを通して撮影する人を見つめている。

写真には、その世界が見た撮影者の姿もまた、映っている。

ときに、痛みが。

ときに、よろこびが。

ときに、その鼓動が。

ことばも、同じだろうか。

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