2018年最後のエントリーをどうするか迷ったが、ここはやはりチャック・スペザーノ博士の名著「傷つくならば、それは愛でない」に締めて頂こうと思う。
元旦から366の項目を一日ずつ写経を続けることができた。
やはり「手(=書くこと)」と「脳(=考えること、理解)」は連動しているようで、目だけで読むよりも理解が深まるように思う。
あらためて、それを実感した一年であった。
さて、366項目めの一節である。
神はさまざまな人を通じて私たちに語りかけます。「あなたがこのままの私を愛するなら、天国までもいくでしょう」
人間関係の美しさは、ひとりの人に対して何かひとつを許すことができれば、すべての人のその部分を許すことができるということです。ですから、だれかを許すたびにみんなを許しているのです。さらにひとりの人と全面的な許しと愛に到達したとき、私たちは「天国」を見いだすことでしょう。ときにはパートナーよりも、ほかの人々のほうがずっと親しく感じられることがあります。それはいちばん身近な人が隠された対立をおのずとたくさん引きだし、表面化させてしまうからです。もしその人がはなれた場所にいれば、対立はないはずです。でも対立とは、私たちが内面で何を癒す必要があるのかを見せてくれるのです。
■あなたのパートナーが目の前に立っている姿をイメージしましょう
その人の内側で神があなたに笑いかけ、微笑んでいるのを見てください。髪はパートナーを通してあなたに愛を降りそそいでいます。パートナーを見つめましょう。完全なる愛があなたにやってきて、宇宙のすべての贈り物をあなたに与えたいと望んでいます。
惜しみなく与えられるものをただ受けとり、あなたがどれだけ愛されているのかを感じてください。あなたが知っているよりも、あるかにあなたは愛されているのです。
チャック・スペザーノ博士
「傷つくならば、それは愛ではない」 p.463
結局のところ、これに尽きるのだ。
誰かの他人との対立(他人から感じるネガティブな感情や対立、いさかいなど)は、すべて自分の中の癒すべき傷が疼いているにすぎない。
その傷を癒すことができたとき、同じように他人の中にその傷を見てとり、その傷をそっと抱きしめることができるようになる。
その傷をつまびらかに見せてくれる(最も許せなかったり、対立する)のが、最も近しいパートナー、というわけだ。
対立があるから「遠い」のではなくて、自分の癒せていない傷を見せてくれるだけ「近い」のだ。
逆説的でえげつないのだが、これは真実のように思う。
私が心を傷を隠し、ひたすらに感情を抑えていた時分、まるでドーナツのように一定の距離で人と付き合うことはできるのだが、その実、真ん中はぽっかりと空いた空虚が拡がっていた。
だれにも、その中の親しさを感じる空間に立ち入らせない。
それだから、寂しさは募るだけで癒えることはない。
往々にして、それを癒そうと優しく近づいてきたパートナーは、同じ傷を持っているものだ。
そして、癒そうと思っても癒せないことに疲れ果てる。
それはそうだ。相手を癒そうとするのは、コントロールの一種にすぎない。
自分がほんとうに癒されようと思い、傷を晒して乾かそうとしない限り、癒されることはない。
そうこうしていると、やがてお互いに疲れ果てて対立(冷戦か世界大戦か分かれるが)を経て、デッドゾーン(お互いの関係性の死、何の希望も持てない状態)に陥る、ということがよくある。
そこでようやく、最も近しい人との最もえげつない対立によって、自らの内面の癒すべき何かを人は見るのだ。
無意識に気づかないふりをしてきた、まだ血が滲み出てきている傷に気付く。
いままで放っておいて、ごめんね。
これからは、もっと仲良くしようね。
分離していた自分を統合するたびに、世界は優しくなる。
それはスペザーノ博士の言うところの、「惜しみなく与えられるものをただ受けとり、わたしがどれだけ愛されているのかを感じる。わたしが知っているよりも、あるかにわたしは愛されている」ということを知る、ということなのだろう。
どんな自分も、
どんな自分の傷も、
どんな最低な自分も、
神がそうしているように、
そのまま愛する、ということ。
それは、自分のためでもあり、パートナーのためでもあり、周りの人々のためでもあり、世界のためでもある。
2018年は、それを実感する年だった。
そして、それは2019年も、2020年も、生きている限りずっと続いていくのだろう。
今年も一年間、休まず書き続けることができました。
この場を借りて厚く御礼申しあげますとともに、皆さまの2019年がさらに愛にあふれた年になりますよう、お祈り申しあげます。
ありがとうございました。