何度かここで紹介しているが、吉兆の創業者・湯木貞一氏の、僕が好きな逸話がある。
湯木貞一氏が、昭和のはじめに大阪・高麗橋に店を構えた当時のこと、お越しになったお客様が、
「美味しかったよ」
と仰って帰られるのをお見送りしていると、湯木氏はそのお客様を後から追いかけて
「ほんとうに美味しかったですか?」
と尋ねたい衝動に何度も駆られた、と。
茶の湯という遊びの中で、美味しく茶を飲むための料理であった「懐石」を、日本料理の本流に据え、それを芸術の域までに高めた湯木貞一氏だからこそ、この逸話が輝くようで、僕は好きなのだ。
他人の評価を気にしていて、表現者が務まるはずがない。
どこまでも揺らぎのない、自分の軸、根源、ルーツ、アイデンティティがあってこそ、外界に何がしかを表現できるはずだ。
そうでなければ、毀誉褒貶の激しい外界の波に巻き込まれて、表現する魂は溺れ、枯渇していくだろうから。
されど、湯木氏の先の逸話は、どこか自分に確たる軸があるというよりは、他人の評価を気に病む臆病な表現者のように聞こえる。
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これは、他人と対峙する時に、否が応でも向き合わされる。
たとえ誰にも評価されなくてもいい、大切なのは自分が自分を評価することだ。
という命題は、究極的には
たとえ愛されてなくてもいい、大切なのは自分が愛しているかどうかだ。
という命題と同義だ。
理想論を言えば、
私が愛していると決めさえすれば、あなたの反応はどちらでもいい。
という無償の愛を与えることができれば、満たされるのだろう。
されど、煩悩深き、欲深き人間である僕には、なかなかそこに至れそうにもない。
それでも、「自分は評価してほしい、愛されたい、弱い人間です」と言えるほどに、僕は弱くなったのかもしれない。
それは、弱さなのか、強さなのか。
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「ほんとうに、今日来てよかったですか?」
「ほんとうに、僕でよかったですか?」
面と向かってそれが聞けなかったからこそ、すなわち、自分にどうしようもなく自信がなくて、自分で自分の価値を認められなかったからこそ、いつもここで書いているような、心や人間の内面といった領域に私は惹かれたんだと思う。
それだけに、その人の価値を見つけて認めて見続けることや、喜ぶことをずっと考えていられるようになったとも思うから、世の中よくできている。
自分の価値が認められず、自己価値が異常に低いということすら、自らに与えられた恩寵の一つなのかもしれない。
湯木氏の逸話に、同じような香りを感じてしまうのは、僕の投影に過ぎないのだろうか。
そうでもないように思う。
湯木氏は、その逸話をてらいなく語れるほどに、強かったのだと思うのだ。
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至らなかった点もあったと思うけれど、「いま」の僕の全力でした。
あの日、来るって手を挙げてくれて、ありがとう。
あの日、晴れにしてくれて、ありがとう。
あの日、笑ってくれて、ありがとう。
あの日、受け取ってくれて、ありがとう。
あの日、手を振ってくれて、どうも、ありがとう。
あの日、よく晴れた丘から吹いた風を、きっと僕は忘れない。