自分がほしくてほしくてたまらないものは、不思議なことにそれを手に入れたと思っても、またすぐに喉の渇きのような渇望を感じることがあります。
ほんとうにほしいものとは、それを自分が得ようとするのではなく、誰かに与えたときに、はじめてそれが手に入るようです。
年始から読み返している名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.自分がほしいものをだれかに与えたとき、はじめてそれが手に入る
あらゆる痛みは、何らかの欲求や必要性を感じるところから、またそれが満たされないのではないかという怖れから生まれます。
いいかえれば、私たちは何かを失うことを怖れ、何かが欠けていると感じることを怖れているのです。
そして、自分の怖れを受け入れるかわりに、それを押し返し、抵抗します。
すると今度は苦痛が生まれ、その怖れを拒絶すればするほど、苦痛はひどくなり、抵抗すればするほど怖れは大きくなります。
状況によっては、欲求がさらに奥深く隠れていることもあるでしょう。
たとえば、あなたはもっとセックスが必要だと感じて、昼も夜も抱きあっていられると思うかもしれません。
しかし、もしかするとあなたが与える必要があるのは、行為そのものではなくセクシュアルなエネルギーかもしれないのです。
より高いレベルで与えることによって、あなたがいままさに必要としているものが生みだされるのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.32
このスペザーノ博士の「傷つくならば、それは「愛」ではない」は、一見すると常識からは外れたようなタイトルが目につきます。
今日ご紹介するタイトルもまた、そのようなものかもしれません。
何しろ、自分がほしいものは、だれかに与えたときに、初めて手に入ると言っているのですから。
ほしいものを手に入れるためには、それを誰かに与えないといけない?
何と矛盾に満ちた言葉なのだと、初見では感じますよね。
欲しいもの=未だ手に入っていないもの、であるはずなのに、それを「与える」とは・・・本書の真骨頂のような一節であり、私のお気に入りの一節でもあります。
2.我が子に嫉妬する心理から
息子と遊ぶことに抵抗を感じる
今日のテーマに近い話ですが、私には息子がいるのですが、その息子から「一緒に遊んで」というアプローチをされると、とても心理的な抵抗を感じた時期があったのですね。
「疲れているから」「自分もやりたいことがあるのに、時間が奪われる気がする」「なんとなく面倒だから」・・・などなど、いろんな理由はあるにせよ、どこか抵抗を感じ、犠牲的なものを感じたのですね。
非常に、お恥ずかしい話ですが。
ところが、ある日、息子とキャッチボールをしていると、自分でもびっくりする感情にぶち当たったのです。
それは、「嫉妬」と呼ぶ以外に、形容しようのない感情でした。
親の私が、この小さな息子に嫉妬している。
それは、にわかには信じがたい感情で、それを認めるのにもしばらく時間がかかりました。
しかし、考えてみると腑に落ちるのですね。
父親にもっと遊んでほしかった
私の父親は、会社員で仕事をしていたのですが、とても忙しく働いていた父でした。
時代もまた「24時間戦えますか」というパワハラのようなCMが流れていた時代ですし、家族を守るために、一生懸命に働いていたとは思うのですが。
鉄道員だったこともあり、元旦から仕事に出かける姿を見ていました。
母親も共働きで、友達も少なかった私は、いつも家の壁にボールを当てる一人遊びをしていました。
だからでしょうか、父親にもっと遊んで欲しかったという寂しさは、抱えていたように思います。
その寂しさが、息子に刺激されるわけですね。
「ぼくはお父さんに遊んでもらってないのに、きみだけずるい」と。
我が子に嫉妬している自分の心に気づいたとき、愕然としたことを、よく覚えています。
3.ほしいものは、その手にあるもの
怖れを越えて与えると、満たされる
私がほしかったのは、大容量の寂しさを癒してくれる、つながりだったのかもしれません。
そのつながりを失うことを怖れ、つながりが欠けていると感じることを怖れていました。
そして、引用した言葉にある通り、そうした怖れを遠ざけようとすればするほど、その怖れ、あるいは寂しさは強くなります。
昨日書いたのですが、感情はどれも、同じような性質を持っていますね。
抑えようとするほどに暴れ、感じるほどに抜ける。
怖れもまた、同じようです。
それを感じようとすると、とても心理的な抵抗が出て怖いのですが、それを越えて与えようとすると、不思議とこころが満たされていきます。
それは、「息子に、自分と同じように寂しい思いをさせたくない」という怖れや犠牲的な見方からの行動ではありません。
純粋に、与えること自体が、自分にとっての喜びである、という意味の愛です。
とはいえ、なかなかいつもその状態でいられるわけではありませんが・・・奔放に遊び、こちらを振り回してくる息子にイラっとすることも、もちろん多々あります笑
ほしかったものは、本当に無かったのだろうか?
され、そうしたことを考えていくと、ふとした疑問が浮かびます。
「与えられるのだとしたら、ほしかったものは、本当に無かったのだろうか?」と。
もしそれが与えられたのであれば、欲しかったものは、もともと自分の手の中にあったことになります。
無いものを、与えることなどできないですから。
無から何かを創造するのは、神さまか、それに似た力を持った存在にしかできないのでしょうから。
実際に、私もそうでした。
息子に与えることで満たされた心で振り返ると、父なりの愛し方というものが、たくさんあったことに気づかされるのです。
上に引用した言葉では、「はじめてそれが手に入る」とありますが、「もともとあったことに気づく」と言い換えることもできるのかもしれません。
この、いわば「取りこぼしていた愛」というのは、カウンセリングの中でもよく出てくるテーマです。
それに気づくと、ほしかったものは、もうすでにあると感じられることもあります。
私のカウンセリングでも、そんな風に一つの出来事をいろんな角度から見ることを、大切にしています。