大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

麦秋と紫陽花と、夏を想うこと。

時に、小満も末のころ。

七十二候では「麦秋至/むぎのときいたる」。

麦が熟し、実りのときを迎える時候です。

「秋」と書いて「とき」と読む、私の大好きな時候の名の、ひとつです。

昔、三国志などの中国の歴史小説を読んでいたころ、「麦秋」という表現をはじめて目にしたのを覚えています。

「開戦は、麦秋を待ってから…」といった表現が、多かったように思います。

「秋」という漢字から、秋のころだと勘違いして、どんどん寒くなる季節に大変だな、と当時は思ったのですが、「麦秋」とは、いまこの時期なんですよね。

麦に限らず、多くの穀物が実りを迎える、時候でもあります。

実りを迎えるのは、何も秋だけではないようです。

 

頬に感じる、ひんやりと涼やかな風。

この時期の晴れた朝の、ほんの合間のような時間にだけ、感じられるようです。

ゆっくりと、深呼吸をしながら、歩きたくなります。

これがもう少しすると、梅雨入りして湿気を含んでしまいますし、梅雨が明ければ、もう夏の熱気で、この涼やかさは失われてしまう。

それは、この時期だけに与えられる、ギフトのようです。

目に映る花の色も、ずいぶんと変わってきました。

夏を思わせる、原色に近いような印象の花。

あるいは、これもまた夏を思わせる、純白の花。

厳寒のなかに観る白梅は、やわらかさと、芽吹きへの胎動を感じますが、この時期の白は、ほんとうに「原液」のような濃さを感じさせます。

季節折々の色を愛でることができるのは、ありがたいものです。

それにしても、季節が流れるのは早いものですね。

ほんの少し前に、桜がどうこうと言っていたような気がしますが、新緑、薫風の季節も流れゆき、もう入梅に気をとられるころ。

早いものです。

そういえば、沖縄などは梅雨入りしたようですが、まだこのあたりは、梅雨入りの気配がありません。

少し雨が降る日もありますが、湿気の少ない、気持ちの良い日が続いています。

このまま、気温が上がっていけば、もう夏になってしまうような。

いや、そうでもないのでしょうか。

やはり、あのじめじめとした湿気の続く梅雨が明けて、スカッとした青空を見る過程を経ないと、夏ではないような気がします。

こういった感覚は、小さい頃に過ごした気候の体験の影響が、大きいように思います。

たとえば、常夏の島で生まれた方は、また違った夏の情緒を持っているのでしょうか。

そんなことを考えながら歩いていると、紫色が。

梅雨はまだなれど、咲いていました。

水無月の、お花。

このたくさんの花弁が集まった姿が、外側から咲いていくのが、美しく。

紫色、というのが、どこかこの6月の情緒と合っているような気がするのです。

こちらは、少し青みがかった色。

これもまた、美しく。

この時期の、夏に移り変わるような陽光の色とも、合っているのでしょう。

こちらは、もう満開になっていました。

もう、水無月。

もう、梅雨の時期。

この陽光の下でも美しいのですが、やはり水滴に濡れた紫陽花も、また見たいなと思ってしまいます。

梅雨入りしたらしたで、湿気に辟易するのでしょうけれど。

流れていく季節とともに。

ただ、流れるものを見ていたいと思う、麦秋のころでした。