大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

何も先のことを何も考えずに18万を貯めたあの頃。

久しぶりに見た風景だった。

学生時代、毎日毎日足を運んだ部室。

夜9時の閉館まで、そこで延々とセロ弾きのゴーシュよろしく楽器を弾いていた。

なぜ、そこを訪れたのかは分からなかった。

しばらく佇んでいたような気がするが、そろそろ帰らなければ、と思い部室のある学生会館を出たが、そこにはまった見覚えのない風景が広がっていた。

どこかの街中のようだった。

戸惑いとともに歩いた先に、見覚えのある顔を見つけた。

一緒に学生時代を過ごした、同じサークルの女性。

顔を動かさず、目線だけがこちらを見ている。

少し憂いを含んだ顔をしているのが、気になった。

「もう、弾いていないの?」

不意に彼女からそう問われた私は、「ああ、いまは弾いていない」と、分かりやすい罪悪感とともに答えた。

その答えを聞いて、彼女の表情が少し憂いを含んだものになった気がした。

外から聴こえる激しい雨音は、私は夢から現に引き戻してくれた。

昨日のようやく梅雨明けしたかのような夏空はどこへやら、今日は台風模様の一日らしい。

久しぶりに昔の夢を見た気がした。

部屋のオブジェと化している青いチェロのケースを眺めて、彼女に覚えたのと同じような罪悪感を覚える。

夏休みらしく早朝から起き出してきた息子に、雨が止んだわずかな時間を縫ってセミ取りに駆り出された。

こんな日でもクマゼミ1匹とアブラゼミ2匹を捕まえることができたが、やがて降り出した雨には勝てず、退散した。

台風は、隣の県に上陸したらしい。

外で遊ぶ選択肢がなくなった息子は、しばらくプラレールなどを触っていたが、不意につぶやいた。

「おとう、チェロを弾かせてくれ」

…そうくるか。

こういうとき、やはり親と子の無意識的なつながりを感じてしまう。

久しぶりにケースを開け、楽器を引っ張り出し弓の毛を絞る。 

チューニングはそんなに狂っていないようだった。

息子はチェロをまるでコントラバスのように立って弾こうとして、ノコギリのように弓を動かす。

ドラえもんのしずかちゃんのような音がギコギコと鳴り、私は思わず微笑ましくなる。

「やっぱり難しい」

と言って渡された楽器で、私はピッチカートでキラキラ星の音を奏でる。

「おとう、これ、いくらくらいだった?」

最近お金に興味が出てきた息子は、何でも価格を気にする。

「えーと、弓とかケースとか全部コミコミで18万くらいだったかな?」

「じゅうはちまん?じゅうまちはんって、いくらだ?」

「一万円が、18個だよ」

「ええー!すごいな、おとう、おかねもちだな!」

「いや、まあ、そういうことになるのかな…」

言われてみれば、不思議なものだ。

息子は私の思考がまとまる前に、矢継ぎ早に質問を重ねた。

「どうやっておかねもちになったんだ?なんで、やろうとおもったんだ?」

初めて親元を離れて一人暮らしを始めて早々に、日雇いの短期バイトや貯金やらで、何とか18万を工面した記憶がよみがえった。

バッハの無伴奏チェロ組曲が、弾いてみたかった。

ただ、それだけだった。

一人暮らしにかかるお金の計算とか、やっていけるのかという不安などといったものが、さして記憶がないのは、若気の至りなのか、時々発動する私の無鉄砲さなのか、好きというものの放つエネルギーだったのか。

「好きだったからだよ。お金は後からなんとでもなる」

「ぼくもおかねもちに、なる」

「ああ、ぜひそうしてくれ。そして、できることなら、そのお金でどうしてもやりたいと思えることが見つかるといいな」

「ふーん」

「君らが大きくなる頃には、クラウドファンディングやポルカみたいなサービスが、もっともっと身近になって、『好きなことへのピュアな情熱』の価値がお金よりも上がってるさ」

「ふーん。それよりおとう、プラレールの線路組むの、手伝ってくれ」

もうチェロに興味を失った息子は、私の話など聞いておらず、棚から新しい玩具を引っ張り出してきた。

聞いていない、ということは、きっと私が私自身に言いたかった言葉なのだろう。

私はぼんやりレールを敷きながら、過ぎ去ったあの日々を思い出していた。

18万という大枚をはたいて迎えたチェロを、私はそれこそ来る日も来る日も触っていた。

ただ、楽しかったのだろうと思う。

そして、そのチェロは何ものにも替え難い音楽体験と、得難い人たちとの縁を繋いでくれた。

何かの価値に安いも高いもないとは思うのだが、その18万はとんと安いものだったように思う。

それを貯めるためのキツい肉体バイトの思い出も含めて、重厚な赤ワインのように年を経るごとに私の中で熟成されていくようである。

台風の朝に見た夢から始まった一日は、そんな熟成された赤ワインの薫りを感じさせてくれた。

レールの敷設が終わった私は、放置されたチェロを乾拭きして、ケースにしまおうとした。

ふと、あの夢に出てきた友人の憂いを持った顔が気になった。

きっとまた会えるのだろう、と思いながら私はケースを閉じた。

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