大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

2025-07-01から1ヶ月間の記事一覧

過去の痛みとは、未完了の感情。

私たちが判断する基準をつくる、過去の痛み。それは、抑圧してしまった未完了の感情がつくりだすものです。

「いい人」がやめられないのは、隠している心の痛みが強いから?

「いい人」がやめられなくて、疲れてしまうとき。その原因を紐解いていくと、心の中に隠している痛みがあるのかもしれません。

判断の基準は、心の痛みがつくるもの。

「いい」「悪い」の何らかの判断をするとき、私たちの心のなかには基準があります。その基準は、過去のできごとからくる心の痛みがつくっていることが多いものです。

必要なのは、判断ではなく感情的理解。

相手やできごと、さらには自分自身を見るとき。必要なのは、なんらかの基準による判断ではなくて、感情的理解だったりします。

土潤溽暑、雨と湿気について。

「大暑」、一年で最も暑いとされる時候に入りました。 最近は、どうも暑い期間が長くなりすぎて、相当の期間、「暑い、暑い」と言っている気がします。 ただ、一番暑いのはやはりこの「大暑」の時期なのでしょう。 土用丑の日、そして夏祭りなどの時期でもあ…

体調がいいこと、自転車にずっと乗り続けている感覚に似ている。

歳を重ねると、「体調がいい」というのは、「自転車にずっと乗り続けている」という感覚にどうも近いような気がするのです。

そうせざるを得なかった事情は、いつも愛からきている。

どんな問題であっても、そうせざるを得なかった事情があります。そして、その事情はいつも愛からきているのです。

【受付終了】8月度個人カウンセリングを募集いたします。

8月度の個人カウンセリングを募集いたします。お申し込みのほどを、心よりお待ちいたしております。

感情を溜め込んでしまうのにも、その人なりの事情があるよね。

感情を溜め込むと、ロクなことがありません。けれども、感情を溜め込んでしまうのにも、その人なりの事情があるはずです。その事情にフォーカスすることもまた、大切なことです。

感情を溜め込むと、周りの人との関係性を損なってしまう2つの理由。

感情を溜め込んでいると、周りの人との関係性を損なってしまいます。その2つの理由について、考えてみたいと思います。

大暑、最も暑いこの頃に、夏のはかなさを想うこと。

風情がない、と昨日書いておきながら、なんですが。 夏の情緒を感じた、というお話です。 「ああ言えばこう言う」は、心理学でもありますしね笑 時候は、「大暑」です。 一年で最も暑いとされる時期です。 その分、身体にも負担がかかるので、土用の丑の日な…

この暑すぎる夏に、風情はあるのだろうか。

時候は「小暑」の終わりごろ。もうすぐ、一年のなかで最も暑いとされる「大暑」に入るころです。

溜め込んだ感情は、いつかツケを払うことになる。

感情を溜め込むと、ロクなことがありません。たとえそれが正しい方法やプロセスであっても、自分の感情を無視することは、いつかそのツケを払うことになってしまうのです。

悪態をついていいし、地団駄踏んでいい。

すべてのできごとは、自分へのメッセージです。ただ、そのメッセージを受けとる前に、自分の感情をきちんと感じつくしておく必要があります。

そのできごとを通じて、気づかせてくれようとしているものは、なんだろう?

起こっているできごとは、内なる自分が何かを気づかせてくれようとしているメッセージ。そう考えてみることのメリットについて、お伝えします。

「愛は伝わって当たり前」の裏側に潜んでいる心理

「伝わって当たり前」と思う裏には、「伝わらない方がおかしい」、そして「伝わらないことが怖い」という心理があります。それは、「伝わらなかった」という過去の痛みからきていることがあるのです。

自分の愛が伝わって当たり前と思い込んでしまう心理。

自分の愛が伝わって当たり前、と思い込んでしまうと、どうしてもパートナーや大切な人とうまくいかないものです。その心理を、「投影」の視点から考えてみます。

蓮の花咲くころに。

七十二侯では、「蓮始開(はすはじめてひらく)」。その字の通り、蓮の花が開くころです。

ご感想をいただいたことと、言葉という表現について。

先日、このブログを読んでいただいている方から、ご感想をお送りいただきました。日々のブログの更新を読んでいただいているとのことで、ありがとうございます。

愛は伝わらなくて当たり前だとしたら。

私たちには、自分の愛は相手に伝わるはず、という思い込みがあります。もしそれが当たり前でないのなら、愛を伝えるために自分ができることは、何があるのでしょうか。

愛を受け取れたり、受け取ってもらえたりすることは、当たり前のことじゃないのかも。

誰かからの愛を受け取れたり、誰かに受け取ってもらえたりすることは、ある意味で奇跡のようなものです。それは、当たり前のことではないのかもしれません。

愛の形を限定しないことが、豊かさにつながる。

自分にとっての愛の形と、周りの人の考える愛の形は、一致しているのでしょうか。それを考えてみることは、私たちが受け取れる愛の総量を増やしてくれます。

愛を受けとれるのにも、条件がある。

愛を受けとれるのにも、条件があったりします。だからというわけでもないのですが、受けとれない自分を責めなくてもいいのです。

受けとれなくてもいい、という考え方。

自分に差し出された愛を受けとれないと、強い罪悪感を感じるものです。けれど、差し出された愛であっても、それは受け取れなくてもいいと考えることも、時には必要なのでしょう。

小暑、そして七夕の日に祈りを。

時候は「小暑」になりました。梅雨が明け、暑さが本格的になるころ。今年は各地の梅雨明けが早いようで、近畿地方より西は6月に梅雨明け宣言が出てたりしていました。

文月、雨上がりの熱田さんで汗をかく。

7月、文月のはじめ。梅雨明けもまだだというのに、もう真夏のような暑さがやってきました。そんな暑さのなか、熱田さんを参拝することができました。

いつも口をついて出る「ごめんなさい」は、ほんとうは誰に謝っているのだろう?

罪悪感が強いと、いつも「ごめんなさい」が口をついて出てきてしまいます。その「ごめんなさい」は、誰に謝っているのかと向き合ってみることは、罪悪感を癒していく中ではとても大切なアプローチになります。

「ごめんなさい」を「ありがとう」に置き換えてみるレッスン。

罪悪感を癒すものは、軽さと感謝です。自分が「ごめんなさい」と言いたくなるタイミングで、「ありがとう」を言ってみるレッスンは、罪悪感を癒すのにとても役に立ちます。

罪悪感の形は数多くあれど、それはいずれも大切な人を想うがゆえに。

罪悪感の形は、実にさまざまです。けれど、どのような形を取ったとしても、それは大切な人を想うがゆえに生まれるものなのです。

罪悪感は、それをなくすよりも、うまく付き合えるようにするほうがいい。

私たちが抱える問題の多くが、罪悪感に関係するものです。けれど罪悪感とは愛の裏返しであり、それをなくそうとするよりも、うまく付き合えるようにするほうがいいのでしょう。