2025-05-01から1ヶ月間の記事一覧
時候は、「小満」。七十二候では、「紅花栄(べにばなさかう)」から「麦秋至(むぎのときいたる)」。紅花の花が咲き、麦が黄金の穂を実らせる時期です。
「自立」していくと、何かができるようになるので自信がつきます。けれども、それは「かりそめ」とも呼べるもので、いつかその自信が崩れるときがやってきます。
「自立」を手放すときに、「負けを認める」ことが必要になります。それは、自分を貶めるとか、そういうわけではなく、勝ち負けの土俵から降りることを意味します。
「シャドウ」を受け入れようとするとき、理性でやろうとするとどうしても難しいものです。どこか、おバカになるというか、その相手と張り合うことをやめることがひつようになるのです。
「シャドウ」を受け入れるとき、どうしても抵抗が出てきます。そうした抵抗がある分だけ、いままで強く抑圧してきたとも言えるのですが、そうした抵抗を乗り越えて、「シャドウ」を受け入れるヒントをお伝えします。
文筆家・心理カウンセラーの大嵜直人のブログにお越しいただき、誠にありがとうございます。6月度の個人カウンセリングを募集いたします。お申し込みのほどを、心よりお待ちいたしております。
さて、この「小満」ですが、二十四節気の名の中では不思議なところがあります。それは、「小」に対応する「大」の節気の名前が、ないんですよね。
今日は、何のこともないつれづれを。身体のこととか、自分をいたわることについて。
「シャドウ」と向き合う恩恵について、それを受け入れるプロセスとあわせて、お伝えします。
心理学を、他人を変えるために使おうとしても、うまくいきません。しかし、自分と向き合うために使うと、それは黄金の輝きを放つのです。
「シャドウ」を受け入れていくのは、実に難しいものです。その受け入れ方についてのヒントを、お伝えします。
嫌いな人が自分の周りに現れるとき。それは、自分にとって癒しが進むタイミングであることを、教えてくれるものです。
「シャドウ」が教えてくれるのは、自分が抑圧し隠してしまった可能性です。「シャドウ」は、わざわざ嫌われ役を演じてくれている人たちともいえます。
5月も半ばになりましたね。少しずつ、風に湿気を感じるようになってきた気がします。沖縄地方では梅雨入りの報もあり、もう少しすると雨ばかりの季節になるようです。
仮面をつけて生きるというと、どうしても否定的なニュアンスがあるものです。それは必ずしも悪いことではなく、つけたり外したりを、選べるようになることが、とても大切なことではないでしょうか。
「シャドウ」が見せてくれるのは、抑圧し、隠してきた自分の姿です。そう生きなかった選択をするには、なにがしかの理由があるのですが、その理由を愛することがとても大切なのです。
「シャドウ」を嫌う根源にあるのは、その人への「嫉妬」です。ほんとうは、あんな風に生きたかった、という思いに気づき、認めることが「シャドウ」を統合するための一歩目です。
自分が嫌って、抑圧してしまった部分、隠してしまった部分は、他人が教えてくれるものです。「シャドウ」とよばれる心理を、お伝えしていきます。
自分のなかの嫌っている部分を受け入れるのは、自分を肯定する上でも大切なプロセスです。そのためには、まず共感することから始めるのがいいのでしょう。
「自立」を極めた先は、袋小路です。そこを抜け出すには、もともとあった依存的な自分を許すことが大切になります。
夜半に降った雨の粒が、その花びらと葉を濡らしていました。やさしいアヤメの香りが、初夏そのものの香りのようでした。
まさに、「皐月晴れ」。そう思わせるような5月の晴天の下、熱田神宮に参拝することができました。
人は、依存時代に傷ついた分だけ、「自立」を深めます。「自立」の強い人は、もとはみな強い「依存」を抱えているものです。
依存から自立への成長は、「がんばる」ことが必要です。いまの自分ができることを積み重ねていくこと、そして少しだけチャレンジをしてみることで、自信をつけていくことができるのです。
依存から自立への成長は、「がんばること」が必要になります。ただ、その自立には「いまの」自分にできることをすることが大切なんです。
「才能」ゆえに傷ついてしまうことがあります。その痛みは、与えることでしか癒せないものです。
時候は「立夏」。「夏、立てる」の文字通り、暦の上ではもう夏に入りました。ここから夏至まで、ぐんぐんと昼の時間が長くなっていき、気温もどんどん上がっていきます。
与えられた「才能」を、自ら抑圧して封印してしまうことがあります。それは傷ついた経験がそうさせるのですが、そんなプロセスと、その抜け出し方についてお伝えします。
「才能」がゆえに傷つく、ということがあります。その心理的な背景と、その癒し方についてお伝えします。
ずっと欲しくてたまらないのに、いま自分の手のなかにないもの。それは、自分自身の「才能」と密接に関係があるのかもしれません。