大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

2025-04-01から1ヶ月間の記事一覧

自己否定は、自分が設定しているハードルの高さを教えてくれるものでもある。

自己否定はしんどいものですが、それは自分が設定しているハードルの高さを教えてくれるものでもあります。そしてそのハードルの高さは、自分の「才能」とも密接に関係しています。

「才能」は、ときに自己否定という形であらわれる。

「才能」のある分野は、それだけ自分への要求や期待も高くなります。それが自己否定という形で表れることもあるので、注意したいところです。

小さいころ、好きだったものを100個以上挙げてみるワーク。

三つ子の魂百まで、とは言いますが、小さいころに好きだったものは、自分の本質や才能と密接な関係があります。それを、できるだけたくさん挙げていくことは、私たちの才能を見つけていくのには実に有効です。

穀雨の終わり、初夏を感じさせる風とともに。

春を過ぎて、もう夏の気配を感じさせるようです。時候は、「穀雨(こくう)」の終わりごろ。穀物を育てる恵みの雨が降り注ぐころとされますが、雨以上にお日様の恵みを感じさせるころになりました。

時には、昔の話を ~夏の日の逃げ水と

車を運転していると、遠くのアスファルトに逃げ水が見えました。ゆらゆらと揺れるその水たまりは、いつになっても近づくことはなく、いつまでも遠くで揺れていました。その光景は、いつかの記憶を想起させるのでした。

時には、昔の話を ~静かな公園に吹く風に

桜も散ると、風の感じが変わるようです。この時期の澄んだ風を浴びていると、同じような澄んだ風を浴びた、古い記憶が想起されるのです。

【受付終了】5月度個人カウンセリングを募集いたします。

5月度の個人カウンセリングを募集いたします。お申し込みのほどを、心よりお待ちいたしております。

いままで、時間とお金を一番かけてきたものは、なんでしょう?

何に時間とお金をかけてきたかは、自分が何と向き合ってきたかを端的に教えてくれるものです。それは、自分自身の才能を見ていくときには、とても大切な問いかけです。

「当たり前」のように感じるゆえに、自覚しづらいのが自分の才能。

自分にとって「当たり前」に感じる部分は、他人にとってはそうではありません。才能や魅力も、この「当たり前」のように感じる部分に宿るのですが、それゆえに自覚しづらいものだったりもします。

寂しさに痛みを感じるのは、居場所を与えられる才能があるから。

「痛み」を感じる部分は、その人の愛と才能が眠っています。たとえば、寂しさに痛みを感じるならば、居場所を与えられる才能があるのです。

何かを失うことについての考察。

今日は、心理学というよりもエッセイ的な何か、です。肩肘張らずに読み流していただけますと幸いです。

葉桜過ぎて、ツツジ咲くころに。

葉桜過ぎて、ツツジ咲くころ。爽やかな風を浴びる喜びを感じながら、ゆっくりと変化を楽しんでいきたいものです。

「痛み」の裏には、愛と才能がある。

人がなにがしかの「痛み」を感じるとき。それは、そこに愛と才能があるからこそ、感じるものだったりします。

大切な人を愛せない、受け入れられない痛みについて。

大切な人を愛せないとき、受け入れられないとき、私たちは強い痛みを感じます。その痛みのルーツと、癒し方についてお伝えします。

「完璧でないと愛されない」という観念の源泉と、その勘違いについて。

「完璧でないと、愛されない」という観念は、多くの自立的な人が持っているものです。この観念を持つに至る源泉と、その勘違いについて、お伝えしてみたいと思います。

「完璧でなくては愛されない」という観念を、どこから持ってきたのだろう?

「完璧でなくては、愛されない」そうした観念を持ってしまうことは多いものです。その観念と向き合うことは、私たち自身の本質的な部分を映し出してくれるようです。

「短所」を隠そうとしていると、罪悪感を抱えてしまう。

何かを隠そうとすると、私たちは罪悪感を抱えてしまいます。それは自分の「短所」や「欠点」でも同じです。

桜散る、葉桜の季節に瞬間を想う。

咲き誇った桜も、もう散り際になっていました。桜の木の下を歩いていると、吹く風に、散った花びらがひらりと舞う。春も過ぎ行くのだな、と感じる風景です。

卯月の熱田さん、春の日差しは力強く。

4月、卯月。年度変わりの時期でもあり、本格的な春へと変化のタイミングでもあります。そんな4月に、熱田神宮を参拝することができました。

愛されるのは、いつだって自分が短所だと思っている部分。

完璧になるほどに、欠点がなくなるほどに愛されると、私たちは思ってしまいがちです。けれども、愛されるのはいつだって、自分が短所だと思っている部分だったりするのです。

信頼があると、「弱さ」はつながりに変えることができる。

「弱さ」は、自分と周りとのつながりを生むものです。ただその前提として、「信頼」が必要になるのです。

自分の「弱さ」を受け入れると、他人の「弱さ」もまた受け入れられるようになる。

自分の「弱さ」をどう扱うかは、周りの人との関係性にも大きな影響を与えます。「投影」の視点から、それをお伝えしたいと思います。

「弱さ」とネガティブな感情の扱い方について。

自分の「弱さ」の扱い方は、ネガティブな感情のそれとよく似ています。どちらも、それを消そうとするのではなく、自分のなかの一部として受け入れることが必要なのです。

「正しさ」が必要なのは、自分の弱さゆえに。

「正しさ」は自分の弱さを守るための鎧であり、盾です。その弱さを癒していくと、「正しさ」が要らなくなっていきます。

咲き誇った花が散り、新緑がめばえる。

小学校の国語の授業だったでしょうか。「はながさく とりがうたう」という言葉を、声に出して学んでいたことを思いだします。

「清明」、春のざわめきの中でこそ生命は美しく輝く。

霞がかった空が透き通り、澄んだ風が吹き、そして万物が生命を謳歌し、美しく輝く。その美しさは、春のざわめきのなかにこそ、あるのかもしれません。

「正しさ」を手放すには、なぜ自分がそれにこだわっているのかを考えてみること。

「正しさ」にこだわると、人間関係を損なってしまうことがあります。では、「正しさ」を手放すためには、どうしたらいいかを考えてみます。

「正しさ」は、相手の立場や感情を想像することを阻んでしまう。

「許し」のプロセスでは、相手の立場や感情を想像することが大切になります。しかし、「正しさ」にこだわると、そうした想像力は容易に失われてしまうものです。

「許し」のプロセスにおける「感情的理解」の重要性。

「許し」のプロセスでは、「感情的理解」がとても大切なポイントです。自分を許すときにおいても、それまでの自分に対してこの「感情的理解」を寄せることができると、「許し」が進みやすいのです。

自分を許すとは、自分がいままで歩いてきた道を肯定すること。

自分を許すのが、一番難しいと言われます。そんな「自分を許す」ことのイメージを、お伝えしてみたいと思います。