感染症予防のための活動自粛と、それにともなう休校が続いて久しい。
家で子どもと過ごす時間が増え、マリオやドラクエに遊んでもらったりしている。
休校期間も長くなり、小学校から渡された課題のドリルやプリントを教える時間も増えた。
ブーブー言いながらも、一緒に勉強する時間に、自分の頃はどうだったのだろうと考える。
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私の両親は共働きだった。
小学校のころを思い出すと、母方の祖母が、学校から帰る私を迎えてくれた。
祖母は私の自宅の鍵を開け、夕飯の支度や洗濯物を取り込んだりしながら、母が帰宅するまで家にいてくれた。
私はといえば、小学校の学区外の幼稚園に通っていたこともあり、遊ぶ友だちもいなかった。
一人でボールの壁当てをするか、漫画を読んで、母の帰りを待っていたように思う。
思う、というのは、あまり明確な記憶がないのだ。
勉強というものについても、あまり親に見てもらった記憶がない。
宿題などは、どうしていたのだろう。
祖母に見てもらっていたのだろうか。
それもあまり、記憶がない。
寂しかったのかといえば、寂しかったのだろう。
たまの父の休日に、キャッチボールをしたり、喫茶店に連れて行ってもらったことが、ことさら嬉しかったことを考えると、やはり寂しかったのだろう。
「そういうものだ」と言い聞かせ、寂しいという感覚を麻痺させていたのかもしれない。
もちろん、時代がいまとは違うし、父も母も一生懸命に生きていたことは、疑いようもないのだが。
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生物としての優秀さは、「若さ」に尽きる。
「最近の若い連中は」、「若い人のやることは」という言葉がネガティブなニュアンスで口をつくようになったら、すでに生物として劣化が始まっているかもしれない、と疑った方がいい。
いつも若い世代の方が優秀だからこそ、歴史は繋がれてきた。
「若さ」という優秀さは、体力や知力といったもののみならず、「先駆者がいる」ということによる。
言い換えれば、それまでの歴史が積み重ねてきた知識や経験といった財産を、余すことなく使うことができることだ。
以前、仕事である菓子職人の方とお話しする機会があった。
「自分より上の世代と同じことをやってたら、申し訳ないよね。だって、その先輩たちが積み重ねてきた経験や情報が、僕らの世代にはあるんだから。少なくとも、それに何か価値を足さないと、後退だと思ってる。自分の下の世代にも、よくそう伝えてる」
そんなようなニュアンスのことを、仰っていた。
当時で御年60歳を超えてなお、第一線の現場に出ていたその職人の方の言葉は、重かった。
若い世代の方が、優秀である、と。
そして、もちろんそれは年配者を敬わない、という意味では、全くない。
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ブースカ言いながら、机に向かう子どもたちを見ながら、そんな言葉を思い出す。
子どもは、親がしたくてもできなかったことをしてくれる。
親と一緒に遊び、勉強した経験のある彼らは、どんな道を歩んでいくのだろう。
優秀な彼らのことだ、私たちの世代にはできなかったことを、たくさんしてくれるのだろう。
そう思ったところで、それは私の親から見た私も、同じなのかもしれないと気づいた。
子どもは、親がしたくてもできなかったことを、してくれる。
息子も、そして私も。
そう思えるのも、自粛、休校が与えてくれた恩恵かもしれない。