「理解してもらおう」とすると、どうしても相手に対しての「期待」が生まれて苦しくなります。
それよりも相手に自分のことを「知ってもらおう」とすると、コミュニケーションが楽になるように思うのです。
- 1.「理解してもらおう」に潜む期待
- 2.飢餓感や不足感は、自分でしか満たすことができない
- 3.人は相手をどこまで理解できるのか?
- 4.理解されるよりも、知ってもらうこと
- 5.それでも、どこかでつながっている
1.「理解してもらおう」に潜む期待
どこかに潜んでいる自分の要求
誰かとコミュニケーションを取るとき、どうしても私たちは「理解してもらおう」としがちです。
「こういうことを伝えたのだから、こう思ってくれるはず」
「これを言ったら、ふつうはこんなリアクションが返ってくるべき」
といったように。
けれども「理解してもらおう」という意図の裏には、かならず「要求」が隠れています。
「こうあるべき」「こうなるはず」という期待から行動しているとき、私たちは何かを受け取る余地をなくしてしまいます。
万馬券を当てた友人がおごってくれるというのでワクテカしながら「万馬券といえば焼肉かお寿司だろう」として期待して行ったところ、指定された場所はチェーン店の居酒屋で友人はすでに出来上がっていてがっかりした・・・
・・・分かりづらいですかね、大丈夫でしょうか。
期待の裏にある要求、そして飢餓感と不足感
それはともかく、「期待」の裏には「要求」があり、そして「要求」は「飢餓感」や「不足感」といった満たされない心の内から来ています。
この「飢餓感」や「不足感」といったものを他人に埋めてもらおうとしても、なかなかうまくいきません。
あるいっときはそれを与えてくれる相手がいたとしても、それは「まだ足りない、もっと」とエスカレートしていき、相手が疲弊してしまいその関係は長く続きません。
2.飢餓感や不足感は、自分でしか満たすことができない
そうした「飢餓感」や「不足感」は、自分で充足するしか満たされることができません。
よくお手紙の最後に書くやつです。
そうです「ご自愛」というやつです。
自分だけは、
自分の気持ちを理解してあげる。
自分の意見を尊重してあげる。
足りないとダダをこねる自分をヨシヨシしてあげる。
そうすることでしか、この「飢餓感」や「不足感」を満たすことはできません。
これが、コミュニケーションの一歩目ですね。
ただ、自分の気持ちというのも難しいもので、他人に影響されてそう思っているのか、常識的に考えてそう考えているのか、なかなか見極めが難しいものです。
そういうときには、当店でよく申しあげている「日常の細部を見つめる」ことが有効ですね。
日々、自分が何を見て何を聞いて何を味わっているのか、感じてみると、少しずつクリアになっていきます。
3.人は相手をどこまで理解できるのか?
さて、それを前提とした上で、今日の本題です。
だいぶ前座が長くなりました。
二千年以上にもおよぶ議論
そもそも人は相手のことをどこまで理解できるのか?という問いがあります。
古今東西、哲学者と呼ばれる方の多くが、この問いについて考えてきました。
古くはギリシャ哲学や古代インドの哲学といった、多くの時代と場所で
「そもそも人ってどうやって世界を認識してんの?」
「それって正確なの?」
「それが他人との間で合ってるかどうか、どうやって確かめんの?」
ということが議論されてきました。
長らくその問いは哲学のものでしたが、20世紀に入り量子力学という分野が確立されるにつれ、そこでも同じような問いが議論されるようになりました。
まあそこで議論されていることの詳細は私にもチチンプイプイ、じゃなくてちんぷんかんぷんですが、要はそれだけ自分と他人が思っていることを伝えたり、共有することは「そもそも、それって可能なことなの?」という議論を、人はずーっと長い時間をかけてしてきたわけです。
理解されることは当たり前ではない
にもかかわらず、私たちはよく「理解されることが当たり前」のような前提を持ってしまうわけです。
友達なら・・・
恋人なら・・・
部下なら・・・
夫なら・・・
ぜーんぶ、他人です。
そもそも「相手を理解すること」って、「全ての人が当たり前に常時できる能力」でしたっけ?
それ、実は、
100mを9秒台で走る能力だったり、
ルービックキューブを3分以内に揃えたり、
140km/h超の高速フォークを投げる能力だったり、
珠算で10桁以上の暗算をする能力だったり・・・
もしかしたら、ある人にとってはそんな能力と同じくらい難しいことなのかもしれません。
そう考えてみると、「理解してもらえることが当たり前」という前提よりは「理解できないことが当たり前」という前提にした方が、コミュニケーションとしては楽なようです。
もちろんそのためには、先ほどのコミュニケーションの一歩目としての「自分で自分を満たしてあげている」ことが必要になります。
そうでないと「自分は満たされていないのに、理解してくれる相手はいない」という状況になり、あまり楽なコミュニケーションではありません。
4.理解されるよりも、知ってもらうこと
CMや広告のように、知ってもらおうとすることが大切
「理解できないことが当たり前」。
そうしたときに必要なのが、「知ってもらうこと」です。
相手に、自分のことを。
選挙活動や、新商品のプロモーション、新作映画のコマーシャルのイメージです。
私はこんな人間です。
私はこんなことが好きです。
私はこんなシチュエーションに幸せを覚えます。
逆に、この状況はこう感じるから、とてもイヤです。
いま、私はこれをやりたいと思っています。
今日はこんなことがあって、こう感じました。
・・・などなど。
自分という全世界限定1体のレアなフィギュア。
それについて、売り込みをするイメージです。
これが楽なのは、その売り込み対して「買う」「買わない」「興味がある」「キライ」という反応は相手の自由だ、ということです。
You Tubeの広告や、テレビのCM、SNSのタイムラインの広告も、興味がなければスルーしますよね。
でも、相手にスルーされようが何しようが、広告は「打たない」とその商品が知られることはないわけです。
前提が変われば、能動的に動けるようになる
相手に「理解してもらおう」と期待するのではなく、相手に「知ってもらおう」とするコミュニケーション。
そう前提を変えると、コミュニケーションは受動的なものから能動的で戦略的なものになります。
今度はどんな広告を打とうかな。
ウザがられずに読んでもらえる広告は、どんなタイミング・デザイン・コピーライトの広告なのかな。
うーん、それを考えると、そもそも一番誰に向けて打ちたいんだろう。
そんなことを考える能動的なコミュニケーションは、楽ですよね。
「理解してもらう」よりも「知ってもらう」を前提にする。
そのためには、自分で自分を満たすことから・・・
5.それでも、どこかでつながっている
いかがでしたでしょうか。
コミュニケーションのいろんな場面の参考になれば幸いです。
さて、ここまで「相手に理解してもらうことは難しい」とコミュニケーションの一般論を書いておいて何なのですが、私自身は深いところでは周りの人とつながっていると思っています。
それは群島のように、空から見るとお互い離れてはいるのですが、深い海底ではお互いの島同士つながっているようなもので、「理解する・しない」というよりは「実は深いところではもとから知っている」というように思うのです。
ええ、なんたって「運命思考」第1位ですから。
それは別としても、日々のコミュニケーションでは「知ってもらおう」とする意識はとても役に立つように思いますので、ご参考にしていただければ幸いです。
今日もありがとうございました。
暦も皐月にかわり、いよいよ風薫る新緑の季節本番ですね。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。