「感情」とは、そもそも自分の内面にあるものであり、誰か他の人に感情を感じさせることはできない、という視点についてお伝えします。
その視点を持つと、自分の感情を誰かにおまかせするのではなく、自分で責任を持つことができます。
それは、実に大きな恩恵を与えてくれます。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.自分の感情は、自分の責任
感情はあなたの内面からあがってきたものです。
内面にないことを、だれもあなたに感じさせたりすることはできません。
「だれかのせいで」怒っているとか傷ついているというのは、その人があなたのなかに入って怒りや傷の発射ボタンを押した、と言っていることになります。
それは真実ではありません。
あなたが何を感じるのか、その選択権はあなたがもっているのです。
それはたいてい瞬時の選択です。
私たちはほとんどの場合、外部からの刺激にただ自動的に反応してしまいます。
自分の内面に痛みがあると、自然にその痛みを誘発する引き金になるような事態が起きるのです。
自分の感情をほかの人の責任にしようとすると、自分自身を卑下し、かわいそうな被害者にしてしまいます。
「自分の感情の責任はほかの人にある」と信じていると、自分が気持ちよく感じるためには、だれかをあやつって何かを変えるように行動させなければなりません。
ところが「自分の感情の責任は自分にある」とすれば、自分でそれを変えることができるのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.235
2.感情には、原因があるか?
今日のテーマは、「感情」でしょうか。
カウンセリングでは、「感情」を扱うとされますが、今日はこの「感情」の持つ性質について、考えてみたいと思います。
「あの人が私を怒らせた」は真実か?
「あの人が失礼なことを言って、私を怒らせた」
「彼の不誠実な言動で、私は傷つけられた」
私たちはよく、こんなことを言ったり、聞いたりします。
このような表現は、日本語としては何も間違っていないと思います。
しかし、心の内面から見ると、それは真実ではないかもしれません。
今日の引用文にある通り、「感情」とは、そもそも自分の内面にあるものであり、誰か他の人に感情を感じさせることはできない、という視点です。
「悲しみ」という感情が、そもそも自分のなかにあり、外側のできごとは、それを浮かびあがらせるだけのものである、と。
そう見えることとは、逆が真実かもしれない
これは、一般的な見方と、「原因」と「結果」が逆になっているといえます。
何がしかの原因が、外の世界にあって、その結果として感情が生じる、というのが一般的な見方です。
「並んでいたら、横入りされた」→「怒りを感じる」というように。
しかし、今日の引用文は、それと逆のことを言っています。
「怒りが自分の中にある」→「怒りを感じるできごとに出くわす(目に入る)」わけです。
そもそも、「怒り」が自分のなかになければ、横入りされても、「急いでるんだな」としか思わないかもしれません。
それが、自分のなかに「怒り」があるがゆえに、それを感じさせるできごとを探してきてしまうわけです。
そして、それを見て腹を立てる。
内面にないことを、だれもあなたに感じさせたりすることはできません。
引用文のこの部分は、非常に重要な視点だと思います。
時に、すぐれたアーティストは、音楽や芸術で、人のさまざまな感情を表現します。
しかし、彼らは「怒り」や「悲しみ」、「愛おしさ」といった感情を、つくりだしているわけではないのです。
人々の心の深い部分に共通して眠っている、ある種の感情を、呼び覚ますからこそ、多くの人に共感されたりもするのでしょう。
そのアーティストが、「悲しみ」や「愛おしさ」をつくりだすわけではないと思うのです。
それは、先にすでに存在しているものです。
そうであればこそ、自分を傷つけるのは、自分しかいない、という視点も成り立つわけです。
3.自分の手綱を、放棄しない
「感情」が結果と考えることの問題点
「感情とは、自分の外のできごとが原因で起こるもの」と考えることは、一つの大きな問題があります。
それは、自分の感情の責任を放棄してしまいやすい、という点です。
何か不快な感情を感じたとき、
「彼女が、謝ってくれないから」
「あの人が、ちゃんと確認してくれないから」
…などと、自分の外に原因を置いてしまいがちです。
はい、よくやってしまいますよね。にんげんだもの笑
しかし、この考えを採用すると、自分の不快な感情を取り除くために、「自分が」できることは、極端に少なくなります。
すなわち、その感情の原因となった相手が、自分を気分よくさせてくれるしか、ないわけです。
しかし、他人の言動をコントロールすることが、人間にはできるでしょうか?
牢獄にぶちこんで、無理やりそうさせるわけでもありません。
他人をコントロールすることは、できない。
けれども、自分の不快な感情を何とかしてもらうためには、他人に何かしてもらうしかない。
だから「正しさ」で相手を説得しようとしたり、
「被害者」になって相手の罪悪感に訴えたり、
相手の反応を期待して「取引」しようとしてしまったり、
…あれやこれやの手を使って、「私のこの感情を、なんとかして!」と訴えるわけです。
これは、関係性においては「依存」に立つことでもあり、めちゃくちゃにしんどい状況です。
「感情」を、何かの結果として考えると、あまりロクなことがなさそうです。
「感情」とは、ただ沸いてくるもの
さて、そうならないためには。
「感情」を、外側のできごとの結果ではなく、自分のものとして責任を持つ、という姿勢が求められます。
「自分で自分のご機嫌を取る」など、よく言われることですよね。
ところが「自分の感情の責任は自分にある」とすれば、自分でそれを変えることができるのです。
引用文にある通りです。
「自分の感情の責任は、自分にある」。
それは、責任を引き受けると同時に、他人に振り回される状態から解放してくれます。
しかし、ここで注意したいのは、「感情に責任を持つ」とは、「感情をコントロールする」とは違う、ということです。
「感情」は、コントロールできません。
よく、それは「天気」や「ウ〇コ」にたとえられますが、それはコントロールできないものです。
明日の天気がコントロールできないように。
お腹が痛くなったら、どうすることもできないように。
「感情」をコントロールすることは、できないものです。
それは、ただあらわれ、ただ去っていくものです。
「自分の感情に責任を持つ」とは、その感情を無理に抑えることをせずに、安全な形で感じてあげること、といえるのでしょう。
そうするために、その人なりの方法があります。
ネガティブな感情を書きだす方法もあれば、
12時間耐久一人カラオケで吐き出す方法もあれば、
カウンセリングで話すのもそうでしょうし、
スポーツなどで身体を動かす方法もあるでしょう。
どんな方法でもいいのですが、自分なりの方法で、自分のご機嫌を取ることができること。
それは、自分のためになるのはもちろんですが、あなたの大切な人のためにもなるのでしょう。
今日は、「感情」の性質と、自分の感情に責任を持つという視点をお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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